大人にも「こわい」や「いたい」が必要だ。
どうもこんばんは。
今週末といえば、木金の疲れが抜けきらなかったのか、土曜は一日中無気力に、主に眠ったりTwitterをしたりしながら過ごしていて、今日(日曜)は溜め込んでいた作業をなんとか切り崩すことに成功したので久しぶりにnoteを書いています。さっきSlackに何やら通知が来ていましたが、スッ…と何事もなかったかのようにアプリケーションを終了させました笑 明日対応するので、今日はすみません、閉店です…(ガラガラ〜…)
さてさて、9月から地味に読み進めていたふみーの『魔女の家-エレンの日記-』を10日ほど前かな?に読み終わりました。魔女の家…これはライトノベルと言っていいのだろうか。文体はライトだが、内容はそこそこ重い。いや、それでも厨二病の域であることは間違いないのだが、そこに踏みとどまらないえも言われぬ禍々しさと、ある種の「聖なるもの」ささえ感じさせる。
内容についてはフリーゲームの方で先に知っていたので、バッドエンドの予兆をひしひしと感じつつ、結末に向かう不吉さと血の匂いに怯えながら少しずつ、少しずつ、読み進めていきました。
聖なるもの
「聖なるもの」というのは聞きなれない言葉かもしれませんが、これはドイツの宗教哲学者ルドルフ・オットーによる概念で、キリスト教でいう「聖人」のような神聖さではなく、もっとプリミティブで混沌とした恐れを誘うもの、それゆえにまた魅惑的なものを指します。(解説は西谷修を参照)
聖なるものの前には功利主義や合理主義につながるような善悪の倫理的判断はないのです。とても感覚的な経験であり、エロスとタナトスに向かって開かれていくような、生への渇望と狂気にも似、あまつさえ祝福さえ感じられる感覚です。少なくとも私はそう思います。そのような内的体験は定義されるまでもなく、あらゆる宗教の原体験、むしろ中核にある経験として考えられてきたのです。
魔女の家
魔女の家のあらすじを簡単にご紹介しましょう。
大まかなストーリーはこんな感じです。
(以下、魔女の家フリーゲーム、ならびに小説版のネタバレを含みます)
そもそもなぜこの作品を私が知ったかというと、先述の通りフリーゲーム(の、ゲーム実況)からなのですが、このゲーム、クリアの仕方によってエンドが違いまして。私が見たのはノーセーブクリアによるトゥルーエンドだったのだけれど、そのトゥルーエンドが本当に救いようがなくて、ですね……。真実が少しでもわかれば、同情の余地もあったのに…と考えがちなところの真逆を行く、どう足掻いてもハッピーエンドになりえなかったんだ、という奈落の底を見つめるような感覚が妙に気になってしまい、だったらとことん見つめてやろう!と探究心と好奇心に火がついたところでメルカリで『魔女の家』小説版をポチった、という経緯がありました。(メルカリで、っていうところがミソですね笑)
私は結構こういう時にすぐ考察とかYahoo!知恵袋とか漁っちゃうのですが、レビューの中で一番刺さったのはYahoo!知恵袋<takayuki ameさん
>のこちらのコメントでして、
間違っていないけど悪い、悪くないけど間違っていた、ということって本当に細かいレベルでは日常のあらゆるシーンで起こりうることで……。それを「(エレンに対して)そもそも悪魔に魂に売って魔女になるなんて」とか「(ヴィオラに対して)偽善者ぶるから痛い目に遭うんだ」とか「結局持たざるものはどこまでいっても何も手に入れることはできない」と自身から切り離して考えるのではなく、エレンにもヴィオラにも共感できるところがあるからこそ、救いようのない物語だったな、って彼女たちを心に引き寄せて「痛む」ことがこの話の救済なんじゃないかと思うのです。
これは以前に過去note記事でも引用したとおり
とはやはり素晴らしい指摘でして、「こわい」も「いたい」も、やっぱり大人にとっても、どうしても必要なエッセンスなのだと思います。大人であるがゆえに、そういうところから自分を遠ざけようと思えばいくらでも遠ざけられるからこそ、余計に。私たちは積極的に、もっと痛くなる必要がある。
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「人から嫌われることが怖くなくなったら、怖い人になりますよ」とは、「大豆田とわ子と三人の元夫」の佐藤鹿太郎の台詞です。ポストモダンにおける自我は、モダニスト的感覚に似て主観性を奪い去られてしまった(『日本人の「男らしさ」』)らしい。
それでも、いや、だとすればむしろ、主観性のない人生において、果たして私たちは生きる喜びを見出せるだろうか?
痛みは、いずれ落ち着くだろう。
痛みを感じていた時とは、異なる深みをもって。
読む前に恐れを抱いていた本が、まるでお守りのように愛おしく感じられることが、ここ最近は本当によくあって。
そう、呪いと祈りは、とてもよく似ている。