新年を迎えることと、次の世に送り出すことは似ているかもしれない
先日、年末年始の巫女奉仕の面接に行った。
巫女の奉仕は20代後半くらいに東京の神社でしていたことがあるのだが、その時に経験した荘厳な境内の中で参拝者の新年を祝う仕事に魅力を感じ、前々から年末年始は巫女をして過ごしたいと思っていた。
ここ3年ほどは生活が落ち着かなかったりしてその目標も先延ばしにしていたのだが、今年は比較的落ち着いたこともあり隣県のとある神社の求人に応募したのである。
その神社は「一の宮」といって、陸奥とか播磨みたいな昔の地域区分の中で最も格式の高い神社らしく、階段を登りきった先には大きな竜の絵が飾ってあったりしてなかなか趣のある神社だった。
面接自体は滞りなく終わったのだが、この機会に改めて、さて祈りとはなんだろうかと考えてみた。
昔は辛い時などに寝る前に手を合わせて
「どうか神様、私を幸せにしてください」
と神に祈っていたが、今から考えると大変身勝手なお願いである。
今ではその祈りの概念は「自分のために」というより「世のために」とか「人のために」という方にシフトしている。
その思いから、改めて巫女という仕事をしてみたいと思ったのである。
さて話は随分変わるのだが、「尊厳死」という考えがある。
ここから先少し踏み込んだ話になるため、死のワードが苦手な方は遠慮されたらいい。
似た言葉に「安楽死」があるが、尊厳死は基本的に延命治療を行わず自然の死に任せることに対して、安楽死は介助者が処置をして死に向かわせることである。
分かりやすい例で言うと手塚治虫さんの「ブラックジャック」でブラックジャックの宿敵として描かれるドクターキリコが行っているのが安楽死である。
私の母親は3年程前に癌で他界したが、今から思うとあれは尊厳死だった。
当時は母の介護や自分自身の環境の変化に対応することに必死であまり意識していなかったのだが、母は自ら延命治療を断り自宅で看取るという選択をした。
私は大学生の頃から尊厳死や安楽死に興味がありそれでレポートも書いていたほどだったのだが、それにしても自分たちも気付かないくらい実際の印象は非常にあっさりしたものだった。
「尊厳死」というと物々しい感じがして、さも白い部屋で親族全員に囲まれあの世に旅立つ……と言ったイメージが私にはあったのだが、実際はもっとシンプルで本人が望む形で死を迎えるということだった。
大事なのは本人がどうしたいか?それにどう社会資源を当てるか?であり、我が家は山の中の辺鄙な地にあるのだが、それでも母の希望に合わせて地域の医師や看護師が快く通ってくれた。
「え、自宅看取りってそんなに簡単にできるの?」
と拍子抜けした部分もあったのだが、この件から死というのは、一生に一度の大切なことなので、自分の納得するような形で迎えられたらいいなと改めて思った。
祈りの話だったり死の話だったり、何が伝えたいのか分からないような内容になったが、新年と死を比べるのは非常識なようで言うのがはばられるが、昨年までを締めくくり、新年に送り出すことは、死を迎えることで生涯を締めくくり、次の世界に送り出すことにも似ているようにも思う。
そんな祈りの気持ちを大事に、今年の年末年始は巫女の奉仕に当たりたいと思う。