鎌田国寿歌集 『夢路を辿る』
鎌田国寿歌集
『夢路を辿る』の世界
長澤ちづ(ぷりずむ代表)
高祖母の仰ぎし桜の静けさを 探し求めて夢路を辿る
歌集名となった一首。高祖母とは祖父母の祖母のこと、作者から見ると四世代遡ることになる。勿論互いに知る由もなく、されど血の繫がりは紛れもない、そんな存在の女性だ。幕末から明治の頃の女人に桜の面影を託して詠う作者は、現実を見据えて詠うよりは浪漫性豊かに事象を捉えて詠う人であろう。
淋しげなあなたを乗せて紫の、不思議な鳥が消えてゆく夢
表紙の絵は、花野に通る一本の曲がった白い路と、上空には鳥が翼を広げる様が描かれている。象徴的な夢路が具象化されたのが、この表紙絵なのだろう。三句目の「紫の、」の読点に拠る切り方が巧み。この歌が象徴するように総じて現実感の希薄な、それだけに透明感の際だつ一巻である。夢を掲げる集名だが、夢そのものが詠われたものは少ない。
七夕の飾りの影の日本兵 脚の無いひと片腕のひと
このような歌から青春歌の様相を見せながらも、戦後の一時期の状況を記憶の何処かに潜ませる年代の作者と分かる。
風がやみ灯りはじめた胸の火は、吐息でさえも危ういのです
今日をただ想い出にだけ捧げます 黄蝶に身をかえ紫苑を巡る
重い目に見えた綿毛はふいに舞い ぼくの視線を空へと放す
この胸に刺さったままのかの記憶 君の浴衣の藍が消えない
掲出の歌の「胸の火」や「捧げる」「ぼくの視線」などの語の選択から、ロマンチストな作者像が立ち上がる。一首目の「吐息」は恋の対象の人だろう。二首目の上句の措辞から、下句の蝶への変身には意外感があり、ここまで徹底して詠えば、マイナスの評価も飛ばしてしまうことだろう。次の三首目も眼差しを空へ放した結句に解放感がある。四首目の恋の痛手を、その人が着ていた浴衣の藍色に託したところ印象的な読後感が残る。
目をつむり耳を澄まして聞いてみる 夜道を歩く人の足音
踏みしめれば土が匂えり 行く手には、桃の若葉が微風に揺れてる
見上げれば悠然と舞う猛禽が わたしの内を見下ろしている
香り良い落葉松の林道で 秋の斜光に手を差し伸べる
感情を余り入れずに坦々と身めぐりを捉えて詠う一首目のような歌も味わい深い。二首目、季節は桃の木に若葉がそよぐ春の盛り、固かった土も雨に潤びて柔らかく土の匂いを放つと、命の芽吹きの気配を生き生きと捉える。三首目の猛禽は恐らく鳶だろう。鳶と言わずに猛禽と表現して下句へと導く。鳶の鋭い眼と素早い飛翔は人の内面を見透かすかのようである。四首目、一幅の宗教画を見るような雰囲気が漂う。落葉松林は落葉が地を被い踏み締めるごと陽の匂いが立ち上がる。
亡きひとの形見となったシーグラス 海の水泡に還えしてあげる
掉尾の一首。シーグラスとは海岸などで見つかるガラス片のことだが、波に揉まれて角の取れた欠片には独特の味わいがあり好まれる。今は亡き人に代わって作者が海の水泡に還そうとする亡き人への愛の籠もる行為だ。
この混沌とした時代だからこそ一巻の境地は貴重かもしれない。今後どのような展開を為す作者であるか期待したいと思う。
夢は愛しく
渡辺茂子
一面の花野の中を一筋の白い夢路がどこまでも続いて・・・
鎌田さんはお逢いしたことのない未知の人である。歌集を手にしてしばらく心に暖める。歌集を戴くと私は、しばらく掌の中に著者の息吹を聴く、掌のなかより心に沁みてくる息吹が愛しい。歌集はその人の渾身の魂であると・・・
早春の空に向かって目をつむり 明るい色であなたを描がく
巻頭の歌、あなたは幻の人であろうか。夢の少女である。巻中に出てくる少女は、あこがれの象徴であり、それを追いゆく少年は鎌田さんの魂であり、いつも夢見る人、何かを追っている人なのである。
歌は何をどのように詠むか、人それぞれであり、何を媒体として自らをどう表現するか、歌は魂のあこがれのようなものであると思っている。少々甘くセンチメンタルめいているが、鎌田さんの今の歌へのポリシーであると、肯定し、受けとめた。
夢見てる何処か異国の陽だまりで 両目つむって聞こえるものを
杳き日の、わが世の春に舞い込みしあなたの羽は今も空色
「さようなら」あなたは云ったもう一度 かえで通りは冬の夕雨
遠くから吹き寄せてくる秋風が 私のなかを空にしてゆく
現実は甘くない。混沌とした世の中、我欲絶えずどこかで繰り広げられる殺戮、心が折れそうである。空しい。
うっすらと心の痛む夕まぐれ 街の花屋の光が目に入る
夏の朝、青空の欠片が点々と雨後の地面に輝いている
この指は枝に触れると風になる 夕月にかざせば光を透す
時知らずわたしの胸にひらく花 淋しき今宵ふっと咲きたり
息を吸う、胸いっぱいに息を吸う 命の在るはなんと清すがしき
この胸に刺さったままのかの記憶 君の浴衣の藍あいが消えない
見えますか?真闇に飛び交う千羽鶴 いのちを込めてここにおります
あの頃は夢をたくさん持っていた 今はひとつの、夢を見ている
直感は、空色のラムネをぐっと飲みほしたような清涼感。爽やかであり、鎌田さんの歌への想いがわかる気がする。対象に自らを重ねるのでなく、何を媒体として自らを表現するか、そんな歌作りを今思っている私である。鎌田さんが、このテーマを選ばれたことが分かる気がする。そして、”あとがき”を語られてないことも。
また、一頁に歌一首、ところどころ、工夫された鮮やかな一葉の写真も情感を深めている。
昨年、はからずも、ふるさとの産土の杜を訪れた。
十七歳の春まで過ごしたところ、生家の窓から、また杜の中を歩きながら、いつもいつも何かにあこがれていた。
頭上を覆う緑の葉群、鳴き交す冴えた鳥の声、一瞬の閃きは、七十年の時空を越えて今まで人生を肯定するもの、今も鮮明であり、この歌集に通うものと不思議である。
鎌田国寿さん、益々のご健詠をお祈りする。