幸い(さきはひ) 第五章 ⑪
第五章 第十一話
桐秋に本心を打ち明けてからも、中路の態度は変わらず、何事もなかったかのように訪問医としての仕事を全うしている。
千鶴にはあの日、唇から血が滲んでいることを心配されたが、桐秋は乾燥して切れたのだと嘘をついた。
本当のことを言うわけにはいかない。
そしてむかえた中路の代診最後の日。
千鶴もそのことを知っており、朝食の席では寂しくなるとこぼしていた。
――彼女の中で、何か答えは決まったのだろうか。
この日もつつがなく診察が終わり、桐秋は最後に中路に礼を言う。
個人としては心にわだかまりがあるが、医師としてはしっかりと診て貰った。
そこは筋を通さなければならない。中路も桐秋の礼をにこやかに受けとった。
中路が挨拶をして部屋を出ると、見送りをしてくると千鶴が続く。
千鶴が廊下に続く桐秋の寝室の扉を閉めた後、桐秋は反対側の外廊下に周り、隣の茶の間に入る。
いつも千鶴達が食事をとる場所であり、洋間の隣の部屋。
桐秋の寝室と、洋間に挟まれた部屋である。
桐秋は洋間側の壁にもたれかかり、胡坐をかく。
今週の初め、中路が今日、千鶴の返事を聞くのだといった時、中路から隣の部屋で話を聞いていてほしいといわれた。
意図はわからない。
千鶴に対する気持ちを桐秋にあきらめさせるためか。
はたまた・・・。
話を盗み聞きすることは千鶴に悪いと思い、桐秋は直前まで悩んだ。
が、結局今ここにいる。
今日も家全体の窓は開け放たれており、洋間に入った二人の声が桐秋の耳に入ってくる。
「千鶴ちゃん。この前の話は考えてくれたかな」
そう問う中路の声は優しいものではあったが、はじめから本題を切り出した。
しばしの沈黙の後、緊張している千鶴の声が聞こえた。
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