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幸い(さきはひ) 第三章 ⑨

第三章 第九話

 桐秋は襖の枠にもたれ掛かり、濃い緑の茂る木を、何をするでもなく眺めていた。

 一月前に見た木と本当に同じものだったのだろうかと思うほどに、そこに絶佳《ぜっか》の美の面影はない。

 そんな季節の過ぎゆくことさえ認識していなかった桐秋の頭を今、支配するのは、この一月、誰より自分の側にいた彼女の、決壊寸前の潤んだ瞳。

 もう昼を過ぎるが、今日は一度も見かけていないし、声も聞いていない。

 いつもなら、その存在を所々でありありと感じるのに。

 それでも朝、昼の食事の膳は変わらず、部屋の前に置いてあった。

 桐秋は昨日、誠心誠意尽くしてくれている彼女に、お門違いの怒りを向けてしまった。

 自分は病人だ。それは紛れもない事実なのに、話の流れから指摘され、受け入れられず、彼女にあたってしまった。

 これまでの看護婦たちは高慢なところがあり、自分がみな正しいのだと桐秋に病人の在り方を強制してきた。

 桐秋が無視すると父に言いつけ、それでも聞かないとなると辞めていった。

 その点、千鶴は違っていた。

 自分の意見を通すのではなく、桐秋がどう思っているのか、感じているのか、ずっと聞いてくれようとしていた。

 問いかけてくれていたのだ。

 桐秋が反発して取り合わなかっただけで。

 また他の看護婦と比べれば、この一月は随分と桐秋の気持ちを慮《おもんばか》って、様子を見てくれたようにも思う。

 そんな彼女が昨日踏み込んできたのは、よほど思うところがあったからだろう。

 冷静になればわかることだ。

 わかっていたのに。

 それでも、離れを清潔に保ち、病人食を完璧に作り、あまつさえ風呂の温度も加減する。

 病人の自分に尽くすことが、使命だと言わんばかりの彼女の有様に、なおのこと自分が何もできない人間だと感じられてしまい、いらついてしまっていた。

 そして、大事な研究資料を破られたことで、それが爆発したのだ。

 悪いのは片づけをしようとしてくれた彼女ではなく、そこに放っておいた自分なのに。

 今しがたまで、研究の続きをやろうと本を読んだり、少し睡眠を取ろうとベッドに横になったりしていた。

 が、昨日のことがまざまざと思い出され、自己を嫌悪する気持ちがどうしようもなくなった。

 今は冷静になろうと風にあたってはいるが、春の温かい風は、桐秋の身体を優しく包むばかりで、頭を冷やしてはくれない。

 それが余計に己のしたことの悪しさを身にしみさせる。

 何かに頼るのではなく、自分で解決しなければならないのだ。

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