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書くことがない

世界中でいろんな種類があり、そのどれもがちょっとずつ特化してることが違うけど、だいたい変わらないSNS。

「SNSやってないの?」みたいなセリフはこの2024年にはあまり聴かなくなった気がする。「SNS」とは言ってなかったけど、まあ「mixi」「Twitter」「Facebook」と時代によってさまざまなSNSがあるけど、その時代に合わせてそんなセリフがたまに起きてた記憶がある。

そんななかで「やらない」という人も一定数いて、当時「なんでやらないんだろう」って思ってよく聞くのは「書くことがない」。

「書くこと」自体楽しいし、ましてや大変とかツライとかは感じたことがあんまりない身としては、この答えがよくわからなかった。

SNSは今の時代、なんなら知り合い同士で繋がろうとすること自体、減った気がする。あるとしてもなんらかの利害関係が発生していたり、なにかの「意味」があって繋がろうとするかもしれないけど、昔はもっと適当に繋がってた気がする。
というか、「繋がり」とすら感じていなかったというか、フレンドや相互フォローになったからといって、いきなり特別な存在になるわけではない。はず。
でも、その個人の違う面が垣間見れたりするのは面白くて、一種の遊び感覚で「繋がり」を作っていた気がする。

ただ、垣間見える人がすべからく言えるのは何らかを書いていたからであり、その発信にこそ個性が宿っていた。
なにを表現するか、も面白いが、どう表現するか。これが気になってた気がする。

ただ、やっぱりいつの時代もいるのが「書くことがない」勢。
書くことがないことを非難するつもりは毛頭ない。
なにを隠そう、これも今、「書くことがないなー」って思いながらキーボードをカタカタ言わせている。

ただ、時世のせいか、昨今は知り合い同士で繋がることが減ってきた気がする。
個人を発信することにどこかめんどくさそうな事が起こる気がする、誰かの目を気にしないといけなくなる、そんな制約みたいなものが生まれてきている気がする。

「書くことがない」を額面通りに受け取ると、そのまんま書くことがないということだが、ここは敢えて深読みをするとして。
仮定だが、たぶん「人に読ませたいことはない」という感じに近いのかもしれない。
もしかしら読み物だったり、ひとつひとつの発言に凄く重きを置いているかもしれないし、崇高、とまでは言わないが遠慮みたいなものがあるのではないだろうか、と予想している。

もしこの仮定が正しいのであれば、そんなに気にせずみんな情報発信をすればいいのに、とも思う。

インターネットはもっと適当で、ブログなんかは適度な発信力だからちょうどいい。
現に、このnoteもまとまりなんかまったくないまま、それらしいまとめ方で偏見に満ち溢れた戯言をのたまっている。

ただ、その程度でいい。
結論、なにが言いたいか。そんなものは特にない。
なんせ「書くことがないなー」って思いながら書いているから。

以上、半蔵でした。
まだまだ日中は暑いですね。


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