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評価や制約を突き抜けた先に、自分の作品と出会った

あまりにかけ離れていると、そこには純粋な気づきと受容が生まれるみたいだ。
わたしはわたしの創作活動で語ってみる。

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わたしは高校生の時から現代短歌の創作を続けている。
趣味という意識はなくて、何だろう…わたしはTwitterで発信しないんだけど、発想はたぶんそれに近い。何気ない気づきや心の動きを短歌という手段で表現している。

大学生になって上京してから、わたしは歌会や勉強会に参加するようになった。
そこで出会った人たちとわたしとの年齢差は、山本さんとRちゃんの比じゃない。50-60歳は年長の人たちに囲まれて、わたしは各所の勉強会に通っていた。

屈託がなく、ものづくりを素直に楽しむその姿勢から、私が学ぶことはとても多い。

これに近しいこと、わたしは「言われる側」としてたくさん言われた。

こんな言葉遣いがあるのねぇ。
感性が若くて、僕にはこんな風にものを見る視点はなかったな。
何でもストレートに詠めるのは今のうちだから、変に技巧に走る前に自由に詠んだらいいんだよ。

こんな言葉を、びっちゃびちゃになりそうなほど浴び続けた。
わたしは既に法的には成人だったけど、子どもや若い人というより、ほとんど宇宙人みたいな扱いだった。
言葉遣いも、作歌の題材も、世界の見え方も、世代差によるギャップがあまりに大きすぎたから。
それにわたしは未熟で知識も少なかったけれど、多くの人たちは「知らないこと」に価値がある、と言っていた。
人生を長く送ってきて、いろんなことを知っていた人たちにしか言えない、そして見えない何かが、そんな言葉を生んだんだと思う。

誰かの評価を気にし、自分らしい発想ができなくなる時が私にはある。

いかに自分が他の誰かの要求を満たすことに最適化されているかをまざまざと感じさせられる。

陶芸と短歌は、全然ちがう創作活動だ。わたしは陶芸をしたことがない。
ただ、わたしが短歌を学び、創作における自分の表現力を手に入れるためにしたことは、とにかく多くの人の視点、すなわち評価の目を取り込むことだった。

それは要するに推敲なんだけど、自分がナチュラルにつくった作品を、Aさんならこう評するだろう、Bさんはきっとここを突っ込んでくるな、と考えて表現を見直す。この表現だと、Cさんには伝わらないかもしれない。短歌は説明を排した創作。好みや評価は人それぞれに委ねるものだが、誤認や多重の意味に取れるのは単なる推敲不足に過ぎない。表現を磨ききらずに完成させてはいけない、と叩き込まれた。
そうしてせっせと磨き上げた作品は、不思議だけど誰の作品にも似ていない。ただただ、わたしの作品なのだった。

何十人もの目を、感性や評価を取り込むことで、わたしの作風の解像度は上がっていった。多すぎたから、逆に偏らなかったのかもしれない。ほんとの意味での無知で未熟だった頃よりずっと、自由に短歌をつくれるようになったと思っている。

短歌と陶芸という手段の違いもあるだろうし、わたしと山本さんの価値観の違いも間違いなく関係していると思う。
陶芸のように頭の中のイメージを造形で具現化するのは、ある種、自分自身と向き合う作業に思える。自分との戦いというか、個人戦みたいな感じ。形という絶対的なもので表現していて、定量的なんだと思う。

短歌は言葉に従属する創作だから、そういうわけにはいかない。いろんな読解の可能性を加味しながらつくっていく。主体は大事だけど、主観だけでは精度が低い。前提条件の多い創作活動だ。
その意味で、山本さんが陶芸に心を惹かれる理由が、よくわかる気がする。

それにしても、思想もやり方もあまりに真逆。ここまでくると気持ちいいな。

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この作品は、共創プロジェクト『不協和音』の作品です。このプロジェクトでは、エッセイを通してお互いの価値観や発見を共有し、認め合う活動をしています。プロジェクトについて興味を持ってくださった方は、以下の記事も合わせてご覧ください

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