親友の定義 ②
真の姿とは何だろう。人見知りという点において、競うべきものではないが、私も負けていない。友達作りが下手なのは、幼少期から今日までずっと、変わらない自身の特性だ。裏切りや傷付け合いが幾つあったかわからない。馬鹿なのか、簡単に人を信用しすぎるのが原因でもある。広く浅くが難しく、あくまで狭く深くなのに、生活の環境が変わってしまうと、簡単に消えてなくなってしまう類の関係性しか築けてしないことに、失って初めて気付く有様だ。最近では、一人で居ることの方が楽になって、散歩先や道端で出会う〝犬に対して優しい人〟に限って心地良さを感じる。
「俺は、友達なんて一人もいないよ」 「ちょっとかっこよく言えば、親友は自分だけでたくさんっていう感じ」
以前、新聞に書かれていた、絵本作家、五味太郎さんの言葉がとってもカッコ良かった。そんな風に思えること、孤独を恐れず、自分を信じる心に感銘を受けた。そしてちゃんと腑に落ちたのだ。
誰かと繋がっていることで得られる喜びがある。それは、誰かでなければ与えられない喜びだ。しかし、他者を介すということは、望んでいないことを得る可能性を受け入れる必要もあれば、望む通りのものが得られない可能性に傷付く覚悟も必要になる。そこに欲を出すから、求めるばかりで得られずに傷付く。そんな構図が不自然に出来上がってしまうのだ。
人が好きでない自覚のある私が、そこばかりに焦点を当てていれば得られなかった今日という日の5時間は、唯純粋に、楽しいひと時だった。
「また会えたら良いね」
帰り際にそう声を掛け合った通り、また会えたら良いな…と思う。でもそれは、九州の彼女が再び帰省し、それぞれのスケジュールが揃った時だろう。彼女と連絡先を交換しなかったのは、敢えてそうしたからではない。そうする間もなく別れたから、そして、そこに焦点を当てることもなく、唯今日の5時間というひと時に、満足したからだ。また会えるなら、犬友の彼女が仲介になってくれるだろう。
二人は今日、いずれもグレーのニットを着ていて、下は揃ってブルーのデニムだった。気の合う友人というのは、打ち合わせなんてしなくても、双子コーデになったりする。今日の二人はまさにそんな感じだった。
幼馴染の空気感。沢山話題を引き出した私は、知らない彼女らの側面を多く知ることにはなったが、二人の中には互いに知っている話題ばかりだったのかも知れない。孤独を感じなかったのは、私が唯々、「顔が見たい」と言ってもらえて嬉しかったから。そして、犬友の彼女が九州の彼女に、私とばったり再会したことを良かったこととして伝えてくれたことが、喜ばしかったからだ。
会話を回すパーソナリティー。そんな気分にならなかったと言えば嘘になる。しかし、極度の人見知りだった私は、ちょっと図々しいくらい、人と関わることに対する抵抗が和らいでいる。大人になったから…というより、オバサンになったからだと、最近富に感じるが、笑って話せばある程度の関係は築けると学習して、今日に至るからである。彼女たちのように、家族になれる他人との出会いは手に入れられなかったにせよ、人でない命と家族になる幸せを、日々実感しながら生きている。
「親友は自分だけでたくさん」
いつか胸を張って、そう言える大人に、これからなっていけるなら、それはそれで嬉しい。