明るく元気でよく笑う人
笑っていればみんな幸せになれる…みたいな育てられ方を、されてきたように思う。親に…というか、世の中に…だ。
笑っていないと「怒ってる?」と聞かれた。学生時代以降、しょっちゅう。
不機嫌ではないが、別段、にこにこもせずに接客したりすると、バイト先の店長から「笑ったら可愛いのに…」と溜息をつかれた。店に匿名電話がかかって、「死ね、ブスっ」と怒鳴られた後、大笑いの末に切られたこともある。すごく印象の悪い店員だったのだろう。悲しかったのは、顔も知らない相手から、笑いながら死ねと罵られるほど、私が他人に不愉快な思いをさせる存在だとわかったことだ。どんなときでも笑っていなければいけない。それが世の中を平和にするのに、お前は何故、それが出来ない?と叱責されている気分だった。
高校から二十代頃の私は、酷い状態だった。子ども時代もろくでもなかったが、自分や家庭の闇の部分を、はっきりと自覚するだけの知識も認識もなかった分、四六時中暗いという人間ではなかった。生きていることがとてもしんどいことに苦しんではいたが、何故こんなにしんどいのか、説明出来るだけの言葉を持っていなかったし、無知でバカな子どもらしく、むしろそれなりに明るい子だったように思う。
一方で、泣いてばかりいた小学校時代を脱した後、中学時代の3年間は、自覚を持って明るく生きた。地獄の小学校を卒業した後、自ら「二度と泣かない」と律して進学した地元の中学校は、別世界のように楽しかった。勿論、勉強や部活は嫌で仕方がなかったから、パラダイスとは似ても似つかない負の部分ではあったが、全体を通して取り巻く空気が一変したのは事実であった。
〝夢〟が見つかったのも大きかった。生きていることを楽しいと思わせるだけのパワーがあった。今考えても、最初に私が本気で明るかったのは、あの頃ではないかと思う。
高校以降、私は再び闇の時代に戻る。度重なる挫折と、夢を失う恐怖に苛まれた日々。友人関係に恵まれたことだけが奇跡だった。そこが愉快でなかったら、私は笑うことなど一日も無かったかも知れない。恐怖との戦いの中で、諦めきれない夢への思いだけで、秒単位のスケジュールをこなす忙しい毎日を、必死に生きていた。
当時、私は病気ではないかと見紛うほど、酷く肌荒れしていた。思春期特有のものだと信じていたが、今思うと、原因はストレスだったのではないかと思う。良い治療法も薬も見つからず、思春期を越せば自然と治ると思われていたから、病院に行くという選択肢すらもなかった。自分でも考えなかったし、周囲から提示もされなかった。大体、そんな時間もないくらい、私は忙しかった。稽古事の合間にアルバイトを入れ、その他の時間は学校に居る。学校、習い事、アルバイト…。それが、私の生活のすべてだった。
完全に夢を失って、高校を卒業した私は、暗黒期をひた走る。笑うことを忘れたまま学生時代とアルバイトを継続し、就職氷河期という言葉も知らないまま、就職という選択肢が見つからないまま、社会に放り出された。学校に行かなくて済む解放感には歓喜したが、Wワークのアルバイト生活で、保険や税金の徴収に追われる生活へとシフトチェンジしていった。それは精神的にも肉体的にも過酷さを極めた。その大変さを自覚しなかったのは、それ以外の道が何処にもなかったこと、そして私が、秒単位のスケジュールで走り回っていた学生時代の継続でそうなったからだ。以後十年間、流石に途中でWワークからは足を洗ったものの、1ワークでありながら、変則勤務で精神的に全く落ち着かずに働き、最初の無職になった後、いか心身を摩耗するだけに生きていたかを実感した。
その直前、生まれて初めて、〝幸せ〟を感じた後、その幸せは暗転した。十二年傍にいた、自分の命よりも大切な愛犬を、病の末に亡くしたのだった。
どんな時も笑っていろ…と、親から言われなかったのは不幸中の幸いだった。そもそも親自体が、どんな時も笑っていられるような精神状態で毎日を生きていたのではなかった。それをはっきり理解したのは、私が大人と呼ばれる年齢になって、何年もしてからだ。自分がそれどころではない人間が、我が子に「笑っていれば幸せ」なんてこと、言えるわけがない。
しかし世間は、私が笑わないことを認めなかった。笑いたくない時に真顔でいることさえ許されない。面白くもないのに笑っている方がおかしい。私はずっと思っていたから、無駄に笑わないだけなのに…。笑わないことは怒っていることに、世間の人たちにとってなっていた。接客業にしても、笑って接客している他のアルバイトがいたとは思わなかった。店長家族だってそうだ。何故、私にだけ笑顔を強要するのか、まるで理解が出来なかった。もしかしたら肌荒れでただでさえ顔が汚いのに、笑いもしなければ醜いだけだったからかも知れないが、笑ったって醜いものは醜い。私は自分の笑った顔が好きではなかったのだ。
自然に笑えるようになったのは犬のお陰だ。そして子どものお陰。我が子ではなく、保育の世界に携わったことで、子どもが好きなことを実感したし、アルバイトでも好きな仕事でお金をもらっていると思えた。結果的に、二度と戻りたくないと今でも思うほど、他の部分でのしんどさがトラウマになる仕事であったが、子どもが可愛く、成長に関わる幸せを感じたのは事実だ。犬と子どもに対しては、何の打算も偽りもなく、私は笑いかけることが出来た。
笑顔で挨拶。当たり前のことのようだが、それが自然体で出来るようになったのも、犬と子どもが居たからだと思う。しっかり自覚のある人見知りを、言い訳にしていられなくなった。営業力は無いが、順応性はあったのだと思う。今では何の無理もない。
しかし人間、笑っていられることばかりではない。今、私は、笑わなくても生きている。笑顔を強要するような人との関りを断っているし、それが自然なことで無理もないから、必要であれば笑顔で挨拶ぐらいはするが、世の中の人間に対し、笑っていれば幸せになれる…みたいな考えを、押し付けたり求めたりするような大人にはなっていない。笑顔なんて出したければ自然に出るものだ。求めて出させるものでもないし、笑いたくなければ笑う必要なんてないと思っている。人間関係を円滑にするかのような営業スマイルや社交辞令も、本人が必要だと思うなら別だが、私が求められてきたような〝もっと愛想良く〟…的なものは、他人が求めるものではないと言いたい。
最近、明るく元気で良く笑う人を、しんどいと感じている自分がいる。そのような人とは、恐らく、私が無邪気に笑えなかった時代に、そういう人であれと周りの大人が強要したような素敵な人だ。会えばいつも明るく声を掛けてくれる。顔はずっと笑顔。言葉はあくまでもポジティブで、たとえしんどいことや辛いことがあっても、それを他人に心配させるような話で締め括らない。そういう人を素敵だと思う一方で、心が折れている、そんな風に生きられない現状から脱することが出来ない時間を延々と過ごしている私は、その人と別れた後、必ず〝しんどい〟と感じていることに気付いた。
明るく元気で良く笑う人が、一人の時もそうだとは限らない。人前だからそうあるだけで、家でたった一人になれば、とんでもなく陰キャかも知れない。しかし、そうかも知れない…と心配させるような態度は微塵も見せないから、私は自分に向けられた真夏の青空みたいなその姿だけを受け止めて、あぁ…しんどい…と溜息をつく。
私も早く、明るく元気で、どんな時でも笑っていられるような生活に戻りたい。しかしそんな誰かを〝しんどい〟と感じる心を、たとえ毎日がハッピーマンデーみたいな日々に戻ったとしても、忘れないでいようと思う。いつか復活した暁には、どんなに自分が幸せいっぱいでも、しんどい人を癒せるような存在でいられる人になりたい。そう思う、しんどい今日この頃である。