鳥肌ぞぞぞっ生活
鳥肌が立つ…という経験は、誰でもしたことがあるだろう。鳥肌=関西ではさぶいぼ。変な名前だ。しかも何だか気持ち悪い。私は関西人だが、さぶいぼとは言わない。〝鳥肌〟で充分だ。
鳥肌=さぶいぼが立つ原因に、寒い、怖い、気持ち悪い…などが挙げられるが、最近、その三つの理由以外で、鳥肌を立たせる経験を度々するようになった。その形容詞とは〝すごい〟である。〝すごい〟…それは、凄過ぎて感動する、震えが来る…といった類の〝すごい〟だ。
これまで、〝すごい〟と思えば、何の抵抗もなく「すごい!」と声高らかに叫んだり、静かに呟いたりした。今でもそれは変わらないのだが、このところ、声に出すより先に、全身にぞぞぞっと鳥肌が立つようになったのである。
今までそんなこと、あったためしがないのに、何故最近…。年と共に体質が変わってきた証拠だろうか?
特に気に掛ける必要のないことでさえ、気になって来ると調べずにいられなくなる性分であるからして、早速文明の利器に頼ってみる。簡略化するとこうだ。
鳥肌が立つメカニズムとは、交感神経の刺激によって立毛筋(毛を逆立てるための筋肉)が収縮することで起こる。鳥肌そのものは哺乳類ならば必ずある生理現象のひとつで、興奮したときなどに交感神経を刺激された結果として立毛筋が縮まることで起こるものである。
実は猫が毛を逆立てているのは鳥肌によるもので、人間には他の哺乳類ほどの毛がないため、立毛筋が収縮したときに鳥肌となって現れる。身体からすれば交感神経刺激→立毛筋収縮…という以上のことではなく、人間にとっては鳥肌というのはあまり意味がない。要するに、感動、寒さ、恐怖のいずれにしても交感神経が反応する…それだけのこと。結果としてあまり意味のない機能であるが、感動を示すバロメータとしては非常に有益。感動して鳥肌が立ったということは、それはその人にとって大いなる刺激になったということ。
ということらしい。なぁんだ…大したことではないじゃないか。
人生の密度に自信がないが、大人と呼ばれるのに充分な年数だけはしっかり刻んできた証拠か。多少なりとも様々な経験を積んだのだろうか。かつては刺激にならなかった類のことが、今では〝刺激〟だと体が反応するに至る何かがあったのだろう。子どもの頃に敏感だった部分が鈍感になってきたのと引き換えに、子どもの頃に鈍感だった部分が敏感になったのかも知れない。
人は成長し、やがて後退する。自分が嫌いで、劣等感の塊だった私が、変わりたいと思いながら変わったところは沢山ある。その分だけ自分を好きになって今がある。
しかし、自分の力で変われきれないところもきっと多い。無意識で無自覚で、変わりたいと思いながら気付けていないところ。また、変えようと思っても力不足で変えきれないままずるずると今日までいる…そんなところがないとは言い切れない。
なりたい自分に必ずしもなれたわけではないし、変わろうと思わずに変わってしまったところもあるだろう。それらに良い意味があるのか、逆なのか、正直言ってあまりわからないが、色んな事に感動し、その都度鳥肌を立てるような人間になろうとしたことは一度もない。その良し悪しをいちいち気に掛けるのに時間を使うのも愚かだ。
これからも私は感動の渦に鳥肌を立て、そんな自分に鳥肌を立てるだろう。「すごいっ!」という感動に鈍感になるか、もっと他のものに神経を刺激される人格になるか、もしくは仙人のように、雲の上で煩悩から解き放たれた存在になるまでは…。