犬のブログ

 仕事にしていたぐらいだから、子ども好きを公言出来るが、時折私の心には悪魔が巣食う。昔から、物凄く可愛い子どもが、時々物凄く腹立たしく思える時がある。【可愛さ余って憎さ百倍!】とかそういうものではなく、見ているだけで本当に腹が立つのだ。
 そんな心根に自ら危険を感じ、母や友人に告白すると、いずれにも大爆笑された。唯、言い訳をすれば、自分が関わって来た子どもに対して、そのような感情を抱いたことはないので、悪しからず…。
 子どもに対し、ごく稀にこのような感情を抱く危険な私だが、何故か動物に対して、そのように感じたことは一度も無い。私の人生には二十年ほど犬が密接に関わっているが、我が家のそれに対しても、他所の子達に対しても、唯、愛しさしかないのである。
 犬も子どもも愛してやまないのに、相違が生まれる事実が、我ながら不思議で仕方ない。
 一見、自分が子どもを産んで育てていないことが理由かとも考えた。しかし、自分が小学生などの子ども時代から、自分より小さな頗る可愛い子どもに対し、『可愛い』と比例するように『腹立たしい』という感情が発生する場合があった。小学生で子どもを産んで育てるということは、常識の範疇ではないので、犬や他の動物に関する気持ちと比較した時、自身の経験の可否が関わっているとは考えにくい。小学生の私は、犬すら未だ育てたことはなかったから、特にそう思う。
 自らの危険思想に脅威しているのは本人だけで、他者には笑いのネタとして受け止められた時点で、あまり深刻に考えない方が良いのかも知れず、再び危険を感じた時は他の人にも告白して笑ってもらおうと考えている。
 
 さて夫も子も無い身であるが、犬が密接に寄り添っているせいで、インターネット上に登場する犬達に、私は夢中である。お気に入りリストに入っているブログサイトはほぼ毎日チェックするが、実はそれらが必ずしも私にとって【お気に入りの人々】であるわけではない。書いている人をそんなに好きではなくても、そこに〝愛犬〟が頻繁に登場していたりすると、ついつい登録して訪問者になってしまうのだ。
 しかし近年、その〝愛犬〟達が、虹の橋を渡ってしまう現実に、胸が引き裂かれる思いでいる。
 動物は人間より一般的に寿命が頗る短いので、ある程度の年齢を察すれば、決して避けられない運命ではあるのだが、それを受け入れ切れず、会ったこともないわんこやその家族である書き手の心中を慮って、打ちのめされたり号泣した挙句、立ち上がれないほど疲弊してしまうことが多い。私には私の生活があり、日常的にしなければいけない事も山のようにあるのに、そうなってしまうのは子どもに対して腹立たしさを感じる以上に危険だと感じる。
 可愛いが腹立たしい子どもに対して、魔の手を差し延べるような理性の無さは持ち合わせていないので、自分の中だけの危機感で納まっている分、未だマシだと思える。
 一方で、犬に対しては自制が効かない。
 自分自身も愛するわんこと虹の橋に隔てられた経験があり、同じ状況に遭遇する度、その深い傷が痛み出すせいであることは想像出来る。激し過ぎる痛みは愛情の証だと言えるが、一度この痛みを経験すると、もう二度と同じ苦しみを味わいたくないと思うあまり、「もう犬は飼わない」と多くの人が一度は思う。私も同じだ。
 今日、いつも見ているある人のブログで、愛された彼が虹の橋を渡ったことを知った。緊急入院からの回復を待った翌日のことで、あまりに驚く。信じられなかった。
 押し潰されそうな胸の痛みを抑えながら、次にNPOのサイトへ移動する。こちらでは保護された犬や猫たちが、新しい家族との出会いを待っている。
 みんな、愛されて幸せに生きる権利がある。
「もう二度と飼わない」と思っても良い。
 失った子を永遠に想い続けても良い。
 けれど、あなたに愛されたあの子が世界一幸せだったように、あなたの愛を受けて幸せになれる子がまだまだ沢山いることに、いつか必ず気付いて欲しい。
 あなたに愛されたあの子を何度でも思い返しながら生きる道を、あの子がバトンを渡した別の誰かが、確かに受け継いでいる。
 巡り逢った時、あなたはきっと、それを知ることになる筈だ。
 今は傷付いて、立ち上がることの出来ないあなた…。
 泣いているあなたの傍には、いつでもあの子がいることを忘れないで。
 虹の橋は遠いけれど、二度と会えないのではなく、あの子はそこで、再びあなたと抱き締め合えるのをちゃんと待っているから…。

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