生きるための希望

 今、私には希望が無い。
 同じ職種で幾度かの転職と停職を経た結果、雇用され、誰かの下で働く…という立場に、すっかり疲れ果ててしまったせいである。
『組織というものに馴染めない…』
 辿り着いた答えがそれであった。
 そもそも、私は人間というものが苦手らしい。考えてみれば、昔からそうだった。人見知りで大人しい性格。真面目で素直に育つことを良しとする世間一般の風潮により、長子は親の接し方や家庭環境の影響から、神経質さを携えて大きくなりがちだ。私はそれを絵に描いたように育てられた。善悪の〝善〟を守らねば叱責を受ける。少しでも〝悪〟に傾けば、周りが黙っていないばかりか、自分で自分を責めるようにもなった。極端な話、まるで修行中の修道女である。
 一方で、同級生や近所の子どもというのは、其々の家庭において妹や弟といった立場で育った人が多く、皆揃って要領が良い。大人に可愛がられるよう振る舞う一方で、ストレス発散するかのように、鈍臭い相手をいじめのターゲットにする。事件になるほど悪質でなくとも、私のような鈍臭い人間の心を打ち砕くのに充分なダメージを、与えるだけの威力は持ち合わせている。
 親や他の大人の言うことを素直に聞き、真面目に生きても良いことなど何もない。しかも、何も悪いことをしていなくても、いじめられたり嫌な思いをさせられることばかりである。しかも長年、長所として評価され続けて来た〝素直さ〟や〝真面目さ〟といったものが、ここ数年、〝短所〟として嫌われるようになってきているのを肌に感じる。
 
 家庭が不和だと、長子は親に当たられやすい。私はそれをまともに受けて育った。当時のことを話すと、母は「あの頃は大変やった」と自分が大変だったことを理由に言い訳をする。私も大人になったから、協力性のない父に対する不満と、一人で三人の子育てに追われ、家事や内職を熟した母の大変さを、今ではある程度汲み取ることは出来るが、子どもだった当時の私に、それを理解することは出来なかった。
 私は家でも孤独で、外に出ても孤独だった。何の力も無い弱い子どもであったし、理解者もおらず、心の中を曝け出す方法も、言葉に出して伝える術も持ち合わせてはいなかった。そのせいか、私はしょっちゅう不貞腐れていたように思う。何か不満があると、膨れてものも言わない。ずっと怒っている。そうすると、周りは私を馬鹿にし、親は尚更怒り、挙句には放ったらかしにした。
 悪循環である。私は自分に表現力が欠如していると気付いていなかったが故に、常に何処かで思っていた。
『誰も自分のことをわかってくれない』
 辛い子ども時代であった。
 大人になった今、もしタイムマシンがあるのなら、私は今すぐそれに飛び乗り、あの頃の私の元へ行って、黙って抱き締めてやりたい。当時、孤独な子どもだった私の心を一番理解しているのは、今大人になった自分だけだ。その時、少しでも私を理解しようとして、それをしてくれる友も大人も、たった一人さえいなかった。
 
 大人と呼ばれる年を過ぎても、周りの風当たりの強さは変わらなかった。嘘をつかれたり、濡れ衣を着せられたり…。身体に傷が残るようないじめこそなかったが、心が血を流すような傷は、幾つも残った。
 私は何故自分がこんな思いばかりするのか解らなかった。理由はわからないが、もしかして原因を作っているのは自分かも知れないと思い、常に自己否定しながら相手の顔色を窺って生きていた。そして、唯、戒めるように自分に繰り返す。
『自分がされて嫌なことを人にはしない』
〝同じ穴の貉〟にはならない。
 それはある意味、自分を守ることでもあった。自分がされて嫌なことを人にした場合、それを責める人間は必ずいる。そしてたとえ順序が逆であっても言われるのである。
「あんたがするからされるんや」
 言い訳など通用しない。人を戒めよういう人間は、揃って人の話を聞かない。自分の言っていることが一番正しいと思っているし、自分は人の上に立って教育してやらなければならない人間だと思っている。イコール、自分が人から教育されるような人間だとは思っていないのだ。だから言い訳など聞かないし、聞きたくない。道理の説明であったとしても、それを〝反論〟若しくは〝反発〟と捉えて聞く耳を持たないばかりか、新たな説教の材料にするのである。
 そういった人間は相手に対し、自分が権力を行使する目上の者でいる為の、あらゆる理由付けを行っている。
○自分より年下だから
○自分より経験が浅いから
○自分より後から入って来たから
…etc…etc…etc…
 それが親であったとしたら、こんな風に言ったりもする。
「誰に向かってそんな口きいてんの!」
 職権乱用の嵐と思うのは私だけだろうか…。
『言っても無駄だ…黙ってハイハイ言うことをきいてるのが平和』
 残念ながらそう思えなかったことが、私の不幸を長引かせた。
『わからない人にはわかってもらえるように話をしなくては…。』
 前述したように、『自分がされて嫌なことを人にはしない』を心に留めていた為、話し言葉はあくまで低姿勢を心掛けた。相手を全否定することも違うと思っていた為、理解の出来ない言動に対し、何故そうなるのか尋ねることで、その人や理解出来ない言動を、理解しようとした。理解し合えれば蟠りも、あれば誤解も融解すると信じたのである。
 私は自分が馬鹿だと気付くまでに、何年もかかった。どんな言葉遣いであろうと、どんな姿勢であろうと、私に対して与えられるものに変化はなかった。理由付けが変わっただけである。
〝出る杭は打たれる〟
 善や正義が正しさではなかった。正義が勝つわけでも、清廉潔白が良いわけでもない。この世の正しさとは、本音と建前の使い分けと、長いものに巻かれることである。それがどんなに醜く、すべての人に平等をもたらさなくてもだ。
 私は未だにそれを美しいと思えない。それが良いとも、正しいとも思えない。理解出来ないままだ。
 それでも気付いたことがある。自分の掲げる正義を主張することが、必ずしも善だというわけでもないということに…。
『人は人、自分は自分』
 どんな選択をするかは人に因って違う。自分の選択を人に押し付けるのも、また違うのだ。
『自分がされて嫌なことを人にはしない』
 ポリシーとして掲げていても、私は自分の掲げる正義こそ正義だと、態度で示していたのかも知れない。押し付けようとする人間を嫌悪し、受け止められなかったのと同じように、それをおかしいのではないか…?と示唆することは、相手にとって暴挙であったのかも知れなかった。
 
 先日、ある就職の試験会場で、隣り合わせた人と意気投合した。彼女は看護師で、現在の職場での人間関係に悩み、転職を目指してそこに居た。半月後に雇用されることを想定し、既に退職届を提出したという真面目な彼女は、私と同じく、この仕事を得るためには、十倍以上にも跳ね上がった高倍率の難関を突破しなければいけない現状に打ちのめされていた。
 彼女と私はとても似ていた。顔や体型こそまるで違ったが、考え方や思考過程、悩みの種類、ストレスから激太りしたことまでも…。
「人間関係で悩まなくて良い職場に巡り逢いたい…」
 私達は口を揃えた。
 きっとそんなところは無いんじゃないか…恐らくお互い思っていたが、それでも共通する切実な願いには違いなかった。
 彼女とは自己紹介すらせずに別れたが、人見知りで初対面の人と話すことなど殆ど無い私には、とても不思議な出会いであった。もし、共に神様が運を与えたら、再び会うことがあるかも知れないが、縁がなければこれっきりだろう。
 
 誰かの上に立つことも、誰かの下に座ることも、私はどちらも苦手である。私にとって社会とは、とても生きにくい場所で、出来るなら離れて暮らしていたい。傍観するのさえ御免だ。
 しかしそんな場所で出会い、私を支え、幸せと安心をもたらしたのもまた人である。苦しいことの連続の中で出会い、今、私が繋がっているのは、類が友を呼んだ人間のみならず、違った思考過程で私を開眼させた人間もいる。
 ある人に投げつけられた言葉がある。
「あんたにとって都合の良い人やったから好きになっただけやろ!」
 私が尊敬し、好きになった上司と、その人はウマが合わなかったらしいことを、後になって知った。
 都合の良い…とは何とも聞き捨てならないと感じたが、確かに、都合が悪ければ好きにもならなかったし、尊敬などしなかったであろう。裏を返せば、彼女にとってその人は、都合が悪く、尊敬出来なかったからウマが合わなかったのである。全ては表裏一体だ。
 
 私は疲れ果て、生きる希望を失くした。しかし休息は、そんな心身を癒す。同じ場所に戻ることは二度とないし、戻りたいとも思わないが、休息は、失くした希望を再び取り戻させようとする。
 もしかしたら、何処へ行っても同じかも知れない。何処へ行っても同じ苦しみが別の形で襲ってくるかも知れないし、もっと酷いことが起こる可能性が無いとも言えない。
それでも私は生きている。生きている限り前を見ることを強いられる。逃げたくても、目を背けたくても…。生きるということはそういうことかも知れない。
 休むことを恐れてはいけない。回復しなければ、それは休めていないということだ。休む時は全力で休む。休めなければ新しいものは見えてこない。髪の毛一本分ほども変われない。
 人にはより良く生きる権利がある。同じ生きるなら、明日は明るい方が良い。
 必要なのは、自分を知る為の時間。一週間で気付ける人がいる一方で、十年かかる人もいる。早くても遅くても、どっちでも良いのだ。自分のペースで生きて行こう。それに気付いた時、人は自分以外とは闘わなくなるし、もっと上手に生きて行けるんではないかと思ったりしている。

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