君の名は

　同世代やそれより若い男性に縁も所縁もないが、大分年上、親世代以上の男性に、知り合いが増えた。理由は、犬連れで顔が割れがちになったうえに、畑を始めてかれこれ５年以上経つことである。現在、自宅引き篭もり状態で、畑仕事はすっかり母の仕事になっているが、たまに顔を合わせれば挨拶する。
「最近、畑行ってないんか？どうしたんや？」
　心配してくれるのはくげさんだ。
　優しいくげさんの名前を、私は漢字で知らない。ずっと気になっているが、改めて訊ねたことは無い。母の方が度々顔を合わせるので、「会ったら聞いといて」と言っているのだが、わざわざ改まって聞くようなことでもないうえ、それぞれ畑仕事に夢中になっていると、聞かなければならないことだと、思い出すことも無いようである。よって私の中のくげさんは、久下さんでも久家さんでも公家さんでもない。物腰が穏やかなので、イメージ的には公家さんだが、麿眉でもないし、穏やかではあっても、独特のなよっと感は皆無。多分公家ではないし、もっと他に当て嵌まる漢字の“くげ”である可能性もある。
　散歩道の角の畑は山下さんだ。多分漢字は山下。他に思いつかないし、それが一般的だから別に疑わない。以前、何十往復も馬糞を運んでいたら、手伝ってくれた小柄なおじさんだ。一輪車にシャベルで積み、上からぱんぱんと抑える。さらに積む。ふんわりひと山にして運んでいた私は、あまりの重さにふらついた。有難い。しかし許容範囲以上だ。掃けた馬糞で、撓っていた支えの板がようやく負荷から解放された。福祉農園の、狭い通路を確保するため、小さな体で板を張り直すタフさに、脱帽した。
　先日は散歩の帰りにたまたま通りかかったところで、破竹をくれた。
「あんまり持って帰ったら、おかあに怒られるんや」
　苦笑いしていたが、畑の人たちに分けるために、わざわざ沢山掘って来たのだろう。こちらも大分優しい。
　農園の中央で、朝早く働いているのは藤本さんだ。こちらも勝手に藤本だと思っているが、藤元さんかも知れない。富士本や富士元かも知れないし、富という字はウ冠でなく、ひら冠かも知れない。私が知る限り、ここいらの畑では誰よりも朝が早い。作業中で手袋をしているから、なでなではしてくれないが、必ずうちの犬に「おはよう」と声を掛けてくれる。
　先日、小川父さんと会って、ひょんなことからカラオケの話になった。藤本さんと二人で行くらしい。小川父さんは顔に似合わず、童謡や唱歌なんぞが好きらしいが、カラオケでは歌えないと言っていた。空気を読まない私は、「歌えば良いやん♪」と言うのだが、「藤本さんが歌う曲にある程度合わせな…」というのが、団塊世代の胸の内らしい。結果、曲目は演歌が中心になるのだとか。人を見た目で判断してはいけません！と叱られるかも知れないが、藤本さんと演歌もぴったり来ない。どちらかと言えば小川父さんが演歌で、藤本さんが唱歌という印象だ。
　実際、小川父さんが藤本さんとカラオケに行くような親しい仲だとは知らなかったし、藤本さんがカラオケに行くイメージもなかったが、小川父さんは誰とでも喋るので、案外交友関係は深く広いのかも知れなかった。
　因みに、小川父さんという呼び名の由来は、小川君にある。小川君は、母が勤めていた会社の社員だ。畑で会う小川さんが、その小川君の父だったということが判明し、以来、〝小川君のお父さん〟ということで、私が勝手に「小川父さん」と呼んでいる。実際、小川君と私は面識がない。見かけたことはあるが、それを小川君だと認識できるほど、しょっちゅう顔を合わせるわけではないので、識別できるのは母の方だ。私は知らない人のお父さんを、勝手に「父さん」と呼んでいる。
　翌日、母から思わぬ話を聞かされた。
「畑に〝藤本さん〟っておるやん？」
「あぁ…畑の優しいあの藤本さん？」
　頭に浮かんだのは、小川父さんとカラオケで演歌を歌うという、うちの犬に挨拶してくれるおじさんだ。
「あの人、藤本さんじゃなくて、大谷さんやねんて」
　なぬ⁈
「藤本さんって聞いてたから、ずっと藤本さんやと思ってたんやけど、藤本さんは小川父さんの畑の近くの人で、あの人の名前は大谷さんらしい…」
　………！
　大谷さんは小川父さんとカラオケに行って、演歌を歌わない。
　ってゆうか、何年も“藤本さん”と思って挨拶し、言葉を交わしていた私たち親子って一体…。よくもまぁ、本人に向かって、「藤本さん」と呼びかけなかったことだ。そもそも誰に、〝大谷さん〟を〝藤本さん〟だと聞かされたのだろう？母は首を傾げていたが、私に教えたのはこの母だ。
「じゃあ、藤本さんって、どの人かわかったん？」
　日に日に畑仲間が増えていく母に、畑放棄中の娘が尋ねる。
「……小川父さんの畑の近くの人ってだけで、どの人だかわからん…」
　謎を解くためにも、早く仕事を見つけて、畑仕事にも復帰したい。