奇跡の子 ③
こういうことって少なくない気がする。大丈夫…と思ったのは、旅立つ前に一旦元気になることが珍しくない世の常だ。東京に戻ったと聞いて、本当に大丈夫かな…と心配したのが、現実になった。
僅か3日のうちに大阪から東京、長野から東京、そして再び大阪へ…。妹の夫は他人だが、流石に身体を心配する。新幹線の中で、我が母から労いのLINEを受けた妹の夫が泣いていたと、妹から聞いた。彼にとっては良き父であり、愛すべき父だったのだろう。我が家とはまるで違うが、それが本来の幸せな家族の形でなければならない。
子どもより孫が可愛い義父は、長男の子である大学生と高校生の孫の手を、なかなか離さなかったと聞いた。容体が急変してから亡くなる前日までに親族すべての人と一通り話が出来たのだとも…。東京にいた妹と姪っ子には会えなかったが、生きる糧になった姪っ子との対面が、この年末年始に叶ったのだ。訃報を聞いて、会ったこともない嫁の姉である私は号泣した。お義父さんと姪っ子がちゃんと対面出来て、本当に良かったと思った。
実は彼女、妹の命を救った恩人でもある。と私は思っている。
我が妹は、職場でのストレスで心を壊し、長年の深酒と薬の過剰摂取により、前年死にかけている。目の前で何度も痙攣を起こしてぶっ倒れ、その度に救急搬送されるのを見守った私は、彼女の弱さと身勝手さに苛立ちながらも、妹の死を何度も確信した。意識が戻る度、倒れたことを全く覚えていない彼女に対し、生きた心地がしなかった私の感情は、怒りに変わった。身内に散々心配をかけておいて、平気な顔をしている。今までと同じく横柄で身勝手で、母や私に対する甘えが強すぎる。もう手を放して良いのではないか…という諦めが、現実に変わる瞬間だった。
母と姉の心が離れたのと入れ替わりに、彼女には夫が出来、娘が出来た。これらの急変が訪れなければ、妹は生きていなかったのではないかと思う。
新幹線でぎりぎり泣かずに過ごし、夜の7時を回って迎えの車に乗り込んだ姪っ子は、丁度ミルクの時間だったらしく、伯母に抱かれた腕の中で、火が点いたように大号泣した。
「おなかすいたな…もうちょっとやから待ってや」
助手席で振り返りながら妹が言う。しかしもうちょっと…ったって、自宅まではまだ30分かかるぞ?
「ミルク無いの?」
見かねて言う私に、「ある」と妹が答えたので、すぐ用意してもらった。その間生後五ヶ月は泣き続けた。
泣き叫ぶ乳児の口に哺乳瓶を突っ込む。空腹と睡魔との鬩ぎあい。泣きながら飲み、寝そうになりながら泣き、息継ぎの拍子に飲み…を繰り返すうちに実家へ辿り着き、号泣したまま家へ入る。おむつを替えて何とか眠り、大人と犬が夕食中に再び泣き出す。少し落ち着き、祖母やら伯母やらとっかえひっかえに抱かれ、しかし母親の顔が見えていないと不安なようで、女三人と犬は振り回された。
いつもはパパに入れてもらっているというお風呂を祖母が四苦八苦して入れ、暴れて洗わせないので首元と髪は雑になる。入浴したはずなのに垢が残り、乾かした頭にはフケが…。今夜は泣こうが叫ぼうが、私が洗い倒すことになった。
大嫌いな風呂に入れられ、すっかり機嫌を損ねた赤子に与薬し、ミルクの哺乳瓶を口に突っ込む。飲んで暫く後、ようやく眠ったようだ。僅か一時間で一度起きたらしいが、その後 朝まで爆睡したらしい。東京からバタバタと出発し、慣れない環境に放り込まれ、道中何とか耐え忍んで、流石に草臥れたのだろうと思う。
翌日のお通夜に連れていく予定だったが、我が家から義父の自宅がある町までは同じ大阪でも片道二時間かかる。深夜に戻るには駅から遠く、乳児にも母親にも負担が大きい。彼女は明日、葬儀に参列し、自らの存在が生きる希望となった最愛の祖父と、今生での別れを告げることになった。
姪が大きくなった時、もしも私が健在なら、きっと話してやりたいと思う。
あなたは曾祖母と溺愛されたわんこの力を借りて、色んな人を助け、希望の星となる使命を持って、この世に生まれた奇跡の子どもだったと…。