不味い蜜柑 ①

 みかんの季節になった。
 今まで生きてきて、一番たくさん食べてきたものは何だろう…と考えた時、それはもしかしたら〝みかん〟かも知れないと思った。
 母の里は産地の海沿いで、祖父母はみかんを育てていた。みかん農家というわけではなく、普通に自分たちで食べるために…である。
 時には売ったりもしたようだが、それで生計を立てていたのではなく、沢山出来たから買ってもらう程度のもの。自分たちが食べる以上に、大方が親戚筋に配られ、送られ、無償で他者の口に入る運命のみかんたちだったというわけだ。中でも最も消費されたのは、祖父母の一人娘である母の宅であり、その主な消費者は初孫の私であったと思われる。
 幼少期は〝骨川筋子〟と祖母に命名されるほどガリガリのケソケソで、私の中に食べることがそれほど好きだった記憶はない。お菓子は好きだが白ご飯が好きでなく、おかずだけ食べて茶碗の中身が減らなかった覚えはあるのだが、実際は「卑しい」と母に呟かれている声がカセットテープに録音されているくらい、よく食べる子だったようである。
 果物も大好きで、しかし今ほど多種多様に溢れていたわけではなく、冬と言えばひたすら日常的にみかんを口にしていた。
 それは祖父母が毎年、冬の間尽きることのないよう、何箱も繰り返し送ってくれていたからで、それをしっかり自覚する年頃になってからは、我が母がその両親に感謝する背中を見つめつつ、有り難い有難いと同じように感謝しながら、段ボール箱の中でひしめき合っていてはどうしても腐ってしまう幾つかを、一つでも減らせるようにと、毎日山のように胃に収めていた。
 本当は、祖父母のみかん畑が何処にあるのか知らなかった。母の実家周辺には、当たり前のように何本もみかんの木が植えられている。田舎なので、都会のように家々が密接しているわけではなく、塀や垣根で自分の土地をしっかり主張しているところも少ないので、それらの木々が何処の誰の持ち物であるのか、地元の人間は別としても、年に1週間程度しか訪れない余所者の私が知る由はなかった。依って、祖父母の畑も周辺の木々同様、その土地に根差しているのだろうな…程度の認識であった。
 初めて祖父母の持つみかん畑に登ったのは、祖父が亡くなる前だったのか、亡くなった後だったのか、記憶が曖昧だ。と書いていて、亡くなった後だったような気がしてきたが、祖父が亡くなる以前、最初の犬と畑のあるその山に登ったような気がして来る。しかし、後者は願望だったのかも知れない。
 獣道のような道のようでない道を、草や蔓を掻き分けながら登り、辿り着いた先のみかん畑は、家々の狭間に違和感なく枝葉を付けた身近な木々と同じではなかった。しっかりと濃いオレンジ色をたわわに実らせたそれらは、山の斜面にずっしりと幹を下ろしている。平地ではないので、歩いて移動するだけなのに、サバイバル感満載でまるでアスレチックに参加しているみたい。しかしそこからの絶景は、私にとってご褒美のようだった。
 不便な田舎暮らしが嫌で、都会に出て行った母。しかし私は、田舎、ことに母の実家であるこの海沿いの町が好きで仕方がなかった。夕日百選にも選ばれるある種の名所ではあったが、子どもの頃はそんな世俗情報を知らないので、はっきり言ってそういうことは関係ないと思っている。
 母は、「昔はこんなに道も舗装されてなかったし、もっと不便だった」と言う。田舎が嫌だったのにはそれなりに理由があり、「都会(といっても我が住まいは都会の田舎で、とっても不便)の便利な生活に慣れているあんたにはわからんのや」…と。
 言っていることは解るし、恐らくそうなのかも知れない。要は無いものねだりで、〝隣の芝生は青い〟というものなのだろうと…。この土地で生まれ育っていたら、私も不便を感じて都会へ出ていきたいと思ったのかも知れない。
 しかし、祖父が亡くなった直後、いつ、何故行ったのか覚えていないのだが、海を見に坂を下った私は、空を映した青い水の中の岩場に、びっしりこびりついて揺れているひじきを眺めながら、しみじみと感じたのだ。
『じいちゃん、良いところで生まれて、良いところで育ったんやな』と。

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