読書ノートに…
読書ノートが面白い。
個々の国語力が大きく表れるだけでなく、記録の付け方で性格まで丸わかり。感受性が浮き彫りになり、その人となりを知ることが、レファレンスだけでなく、日常のコミュニケーションにも役立つ。
【図書】とは国語科に属する一単元ではあるが、授業を受け持つのは教師ではなく、司書。児童に教育を施す時点で、教師でなくても教員ではあるらしいのだが、私自身、「先生」という呼び方をされる職業に就いて長いので、それ自体に免疫がないわけではない。唯、教師集団の中で「先生」と自分を形容するのは抵抗がある。本当の「先生」ではないので、何処か欺いているような気になるからなのだが、そんな風に思うようになったのは、学校という場所に居る先生たちが、まさに〝先生〟然としているせいかも知れない。 勿論、児童や保護者、他の多くの教師は相手が司書でも私を「先生」と呼ぶが、司書本人は専ら自分を「私」と表す。私は、児童に対して自分を「先生」と言わない。
一方、教師でも、司書を「先生」と呼ばず、「○○さん」と姓で呼ぶ人がいる。司書は教師ではないのでそれが本当は正しいのだが、私にとって「先生」とは、地位や名誉に関係なく、単なる呼称でしかない分、それはそれで若干の違和感が生じる。
『あぁ…この人の中では、教師と司書との間に明確な違いがあるのだな…』と感じるせいだ。
前職では、本来なら「先生」と呼ばない職種の人に対しても、「先生」という副称が付けられていた。
事務の〝先生〟。
給食の〝先生〟。
校務の〝先生〟、等々…。
その時はそれがとても不可思議に思えたが、実際、子どもに関わり、何らかの形で教え導いているには違いない。教師が司書を「先生」と呼ばないことが間違いでないのと同じように、こちらを「先生」と呼ぶのも間違いではない気がする。
翻って、読書ノートであるが、好きな授業に【図書】を挙げる子は圧倒的に多い。高学年になって【図書】の授業が無くなることに嘆いたり、不満を洩らしたりする子が本好きばかりでないことを思えば、【図書】に対する児童の精神的自由度が計り知れる気がする。【図書】が【国語】の一部であることに自覚がない児童もかなりいるのだが、考えてみると、本を読むことが国語を主体とした文章のみとは限らないので、強ち〝国語〟に限定する単元でもないのかも知れない。
特に男子は、理数系に走る子が非常に多い。
本の基本として、文章を読んで知識を得るのだとはいえ、身に付く内容は理数なので、【図書】とは実は〝国語〟に限らないマルチ単元であり、個々がそれぞれの興味に合った学習を選択出来る自由科目なのかも知れないとも思う。
その中で〝読書ノート〟を書くという行為自体は、日記や読書感想文を簡略化したような背景がある。その分、〝国語〟としての領域が目立ち、その占める割合も高まる。
読書とは〝書(かれたもの)〟を〝読む〟に他ならないが、〝読む〟〝書く〟という意味を含んで記されるだけに、解釈としては確かに【国語】なのであろう。また、〝読む〟に選択の余地はあっても、〝書く〟は一定のルールに基づいてその行為を形にするので、【図書】に関して言えば、【国語】と称するなら〝書く〟側に軍配が上がるのではないかと考えている。
読書ノートに記すのは次の5つ。
①ノートに対して何冊目の本を読んだか?(累積冊数)
②読み終えた日付
③読んだ本に対する自己の評価点(5点満点中何点か?)
④分類記号
⑤本の感想
それらをチェックして、大人がハンコを押すのだが、授業時間のみならず、休み時間のノート持参者に対しても、私はこれを、最初一人でやっていた。
前述したとおり、司書が児童の学力や感性の部分に踏み込むことで個々への理解が深まり、あらゆる場面で助け舟を出せるので、それはなにものにも代えがたいメリットの宝庫となる、ひとりひとりを理解する上でも重要な作業であった。
一方で、時間内に終われない、一日6時間のフル授業ではスタミナ切れを引き起こすなど、限界を感じて他校の司書さんに相談した結果、そんなことをしているのは私だけだという事実を知った。
今は担任など、引率の教師と作業を折半している。
読書ノートはルールに基づいて書くが、【図書】は普通の授業とは違い、児童にとっては音楽や体育など副教科的なニュアンスを含んでいる様子。主要教科である国語、算数のように、正しい答えを導き出さなければ✕がつく種類のものでないせいか、時々遊び心を加えてくる知的な輩が登場する。
例えば…
①クイズ(本の内容や登場人物を使った、オリジナリティ溢れる出題)
②司書への質問(自分はこう思ったが、司書はどう思うか?など)
③イラスト(読んだ本からイメージしたキャラクターやモチーフを文章意外に描き加える)
④ストレートな誉め言葉(読み聞かせ上手い、読み方や声がオモロー!等々…司書のモチベーションを上げてくれるが、何も出ませんよ(笑))
こうなって来ると、子どもが書いたものに対し、大人が評価やアドバイスを与える…という形とは違ってくる。一方通行ではなく、返答や反応を求めた交換日記的な要素が加わるので、コミュニケーションの要求を無視できなくなるせいだ。
このような工夫を施すのは圧倒的に女子が多い。男子はどちらかというと、やるべきことをとっとと終わらせて次のステップに進みたい傾向が強い。それが基本ではあるのだが、ハンコをもらってはい、終わり!次、次~と、一人読みタイムへ没頭。人との関わりより自分の世界に重点を置いているあたり、些細なことのようで性差が生じる現実を目の当たりにする思いだ。
今は分類記号を記入している欄が、以前は、特に指定の無い空欄だった。学校図書に記されている分類は、最大、数字3桁までなので、分類教育を推進するにあたり、指定の無い小さな空欄に「分類を書きましょう」という指示を明確に示すにはぴったりサイズであり、良い改変だったと思っている。
唯、一つ残念なことがあった。
以前勤めていた小規模校に、とてもとても真面目で大人しい女の子がいた。非常に読書家で、殆ど声を聴いたことが無いくらい、会話によるコミュニケーション機会が少なかったのだが、彼女はその小さな空欄に、記録する本から想像した見事なイメージ画を描いて来るのである。
当時の記録事項は分類を除いた4項目。さっさとハンコをもらって自分の本を読みたい行列の狭間に、一瞬の癒しがもたらされる。毎回、決して遅くない時間帯に、細かい描写を加える余裕にも驚いたが、小さなイラストひとつから、その本に対する彼女の感情やイメージがしっかり伝わって来るので、毎回感動した。
芸術家というのは実に寡黙なもので、言葉や表情で内なる情熱を表すことをしない代わりに、類い稀な才能によって感情を吐露し、人々の心を打つものなのかも知れない。彼女は他のイベントでも絵の才能を発揮し、画力の無い司書がテンプレートで作成した賞状を受け取る機会を得る度、クラスメイトの喝采を浴びるも、表情一つ崩さなかった。
図画工作に限らず、子どもの芸術的表現には、度々心を打たれる。廊下の壁面に飾られた作品の数々…。書道の文字ひとつとっても、見ていてまるで飽きない。自身がそういった才能を微塵も持たないからなのか、小学生=子どもだと、何処かで侮る心があるせいなのか、この子はこんなことも出来て、こんな〝素敵〟を生み出す力を持っている!と知るにつけ、個への興味が更に湧き上がる。
詳しくなくても、全校児童全員のことを知っているのが司書の自慢。成長の過程で、決して大きな影響を与える場所に存在しているわけではないが、既製品の美しさとは無縁の手作りされた読書ノートを、残しておけばきっと宝物になるであろう記録は山のようにある。
子どもという短い時間の中で、何に心動かされ、何に影響され、誰とどんなやり取りをして相手は何と返したか…。大人になった時、全て忘れてしまっていたとしても、読み返せばかなり面白いはず。宝物にしてもおかしくないようなノートも沢山あるのである。
ノートを達成した時、大人達が激励のメッセージを寄せる中で、担任の先生の達筆の下には、司書の悪筆と苦言が並ぶ。ニアミスを減らし、惜しい書き方を脱して更なる昇華を望むばかりにそうなるのだが、万が一ノートを大切に残している子がいて、将来読み返したとしたら、当時の学校司書は随分嫌な奴だったと思うかも知れない。恐ろしいことだし、何かに責任転嫁するのは本当に嫌なのだが、せめて落ち着いてテンションの上がるようなメッセージを添える余裕と時間が欲しい。