見出し画像

怒ル者




「あなたは動物を飼わない方がいいですよ、きっとすぐ殺しちゃうから。」



ぼくは、動物に好かれない。

動物に好かれることを望む人は多いだろう、自分は動物に好かれていると自負する人も多いだろう。
けれど、ぼくは知っている、ぼくが動物に好かれないってことを。

ぼくはけっこう前から動物に興味があり、公園のツミ(小型のタカ)を観察したり、カエルやイモリやヤモリを飼ったりしていた、むろん子供の頃には家にゴールデンレトリーバーとネコが2匹いたりした。

けれど、ぼくがそれらの動物たちにたいそう好かれていたとも思えないし、今思えば、怖がられるかウザがられていたように思う。

どうして動物に好かれないのか?
ぼくにはそれもなんとなくわかる。
ぼくというニンゲンは非常に胡散臭いし、気分のありようが不安定だからだ。
動物だって、子供だって、健全な大人だって、もちろんぼくだって、一貫性のある安定した精神を持つ者に安心感と好感を持つもんだ、急に不機嫌になるやつなんて誰だってごめんなんだ。

とにかく、ぼくは動物に好かれないわけだが、無能なサルの困ったところで、こんな奴に限って動物と一緒にいたいたがるってもんだ。

「あなたは動物を飼わない方がいいですよ、きっとすぐ殺しちゃうから。」

先日このようなセリフがぼくの耳に散弾のように弾けて飛んできた。
こう言ったのも、言われたのもぼくではないのだけれど、隣の会話からぶっ放された。
ぼくはヒッィィ!となった。
まさに己が言われたとばかりに心臓は跳ね上がり、身震いしたのだ。
このセリフはぼくの中で「呪い」となり、ことあるごとに漂い現れる。
当のこのセリフを「言った人」と「言われた人」がいったいどんな気持ちであるかはわからないけれど、もしぼくが「言われた人」だったなら良くて即死、最悪ならその場で悲憤のシルバーバックと化し暴れるやもしれない。

「動物とうまくやる」、残念ながらこれは天性のもので、もともと動物のお世話が上手い人、動物の扱いが上手い人というのはいるもんなのだ。
ぼくのように「才」のない者はひたすら努力を強いられるが、これがなかなかうまくいかない。

ぼくは、気分がめいりやすい。
馬鹿みたいに踊り狂ったかと思えば、急に黙り込むのだ。
さっきの話もそうだけど、ちょっとしたことで気を病むのだ。
もちろん政治や芸能ニュースに気を病むことはまるでなくとも、「親友」に関しては非常にナイーブなのだ、そう、ぼくは彼らに好かれることを渇望しているあまり媚びているし、「才」がないので自信がない、ゆえに挙動に一貫性を欠くことが多く、何かあるたびにこうしたほうがいいのかも、ああしたほうがいいのかもとフラフラしがちだ。

例えば、イヌが何かしてほしくないことをしでかした時、どうする?

ぼくは鬼軍曹だから、現場を押さえときは首輪をつかんで鬼の形相で咆哮する、ポオはキュゥと泣く、それを見ると怒ることが不安になることがある、そう、嫌われたくないのだ。

この「怒る」というのが嫌なのだ。
とはいえこちらが不快に思っていることを伝えるにはどうしたら良いのか。

昔、ポウくんがポウくんのママと一緒にいるとき、彼女の喰っているどでかい肉をポウくんがねだりにきた、ポウくんがその肉に鼻を近づけるたび、彼女は歯茎をあらわに唸った、噛みついたりはしない、ただ、鬼の形相で唸ったのだ、何度か繰り返した後、ポウくんは肉を諦めて去っていった。
「なるほど、そうか」とサルは思ったのだ。

リルとポオがプロレスをしている、お子様のポオはしつこいしやり方がえげつない、けれどリルは非常によく耐えている、しかしついにはブチギレる、切れたリルはお子様に制裁を加える、歯をむき出しにしたものすごい形相で彼を上から押さえつける、キャンッと哀れっぽく泣くポオ、けれど、実のところはリルは歯を当ててもいないのだ、子供は被害者がましくキャンキャン鳴いて哀れみを誘っているが、ひどい目に遭っているのはリルの方なのだ。
「なるほど、そうか」とサルは思うのだ。


彼ら、年長の者は良く耐えているし、決して子供を傷つけない。
この「決して傷つけない」が重要なのだ。
ものすごい形相で知らしめてはいるが、物理的に何もしていないのだ。
ああ、優しいな、偉いな、すごいな、理性的だな、とぼくは思う。
怒りのアドレナリンだ出ると、なかなか難しいのじゃないかと思うのだ。
それなのに彼らは興奮状態にあっても力を加減できるのだ。
これを「理性」と呼べやしないだろうか?
ぼくら人間様が自分たちだけの特許だと謳う「理性」とやらを彼らも持っているとはいえないだろうか、しかもさ、彼らの方がそれをうまく使えているのではないか?

カーーーーーーッとなると、ニンゲンは理性を失う。
殺人や傷害事件も然り、言い合いもそうだ。
ぼくはいつだってすぐに理性を失いがちだ、自分を制御できていない、すぐアドレナリンをバーバー出して己を忘れ、ひどい発言をする。
冷静になるといつも、なんだってあんなどうでもいいことで腹を立てたりしたんだろう、と反省するもんだ。

常に「理性」を保てる人がどれだけいるだろう、さらに歳とともに難しくなるように思う、ぼくも含め、オジサンオバサンはキレまくっている、顔を赤くし、ハフハフ言っている、あーあー今アドレナリンジャブジャブ出まくってるーって見ててわかるもんだ。
けれど、なんとか殴らずに止まっている、「理性」があるからね。

リルもそうだ、ブチギレてるからってポオを咬んだりすることはない。
ぼくだって、ブチギレてもポウくんを蹴ったりなんかとてもできなかった。
なんでって、相手を「破壊」したくないのだ。
相手にこの怒りをぶつけたい、けれど、相手を「破壊」したくはない。
だって「殺し」てしまったらもう遊べない、愉しくないもの。

このストッパーはなんだろう。
思考が停止するアドレナリンジャブジャブのなかでも働いてくれるこのストッパーはなんだろう、このストッパーがあるからぼくらは大切なものを失わずにいられるのだろう。
トテモトテモアリガタイ。

イヌもこのストッパーを持っている。
彼らはブチギレてもぼくを咬み切ったりしない。
彼らは常に口の中に凶器を隠し持っているのに、それをみだりに使ったりしない、「咬み加減」という「神業」を備えている、つい力が入りすぎて。。。とかいってぼくの腕を喰いちぎったりしない、瞬間的にそんな繊細な加減をぼくらはできるだろうか?すごいことだとぼくは思うのだ。


生き物に好かれないぼくが彼らを求めるのは、ぼくの身勝手で、ぼくの暇つぶしだろう。
暇を持て余した人間様には暇つぶしが必要で、恋愛、金儲け、子育て、料理、車、旅行、キャンプ、釣り、ファッション、映画、音楽、読書。。。なんでもそうだ、暇つぶしだ、そうやって、手に入れては捨ててを繰り返す、けれど、その暇つぶしが文明化した人間様には何よりも大事なものでそれがないと暇で病気になってしまうのだ。

ぼくの暇つぶしは彼らで、彼らがいないとぼくはダメなのだ。
同じ「犬暇つぶし」でも「お世話型」と「友達型」がいて、ぼくは友達型だから彼らに咬まれるることが多い、取っ組み合うから彼らの手である歯がどうしてもぼくの身体に当たるのだ、けれど、どんなに暴れても肉をもぎ取られたことなどない。
ポウくんがまだ子供頃はもっと強く、ケツが赤く腫れるほど噛んできた、ぼくは痛くて悲鳴をあげた、そう、悲鳴をあげたのだ。
ポウくんは実家でイヌ同士の噛み加減は学んでいたけど、ニンゲンの噛み加減は学んでなかった、彼はぼくが悲鳴をあげると、痛がっていることを理解した、ぼくが他のイヌたちよりも痛がりであることを、そうしてだんだん調整してくれた。

ポウくんと噛み合ってフーフーいうのが好きだった、彼はぼくの腕に歯をめり込ませてくるが、それが気持ちがいいのだ、彼のどでかく滑らかな歯がいい具合にめり込む、いわばツボ推しみたいな感じで落ち着くんだ、突き刺さって皮膚に穴が開くことなどない、「加減」が絶妙なのだ、その「加減」にぼくはトキメクのだ、彼がぼくを知ってくれた悦びに、彼の思いやりに。

ポオは赤ちゃんの尖った歯でぼくを噛む、ポウくんはすでに全部永久歯だったから、こいつみたいな乳歯で噛まれるのは初めてだ、すごく痛い、ホチキスみたいに刺さるのだ、ぼくはイタイッ!と悲鳴をあげる、キャッ!と甲高い声を出したりもする、すると彼は不思議そうな顔でぼくを見る、何か考えているようだ、調整中なのかもしれない。


ぼくは動物に好かれない。
ぼくではない人に飼われた方が幸せなのかもしれない。
けれど、ぼくは彼らがいないとダメなのだ。
だからぼくができることはしてやりたい、ぼくは彼らのためにぼくを調整し、お互い楽しくやれるようにしたい。
みんなに好かれなくていい、彼らに好かれるように努力したい。


まいにちまいにちぼくらは調整し合う、相手を思いやることで自分も愉しく在れるように。