橋本治とミュージカル3

橋本治にとっての「"日本の"ミュージカル」の"終わり"ははっきりしている。昭和35年12月から5回ほど続いた東宝ミュージカル『雲の上団五郎一座』である。なぜこれが"終わり"なのかというと、これ以降、日本のミュージカルは、"本格"ミュージカルの方向に進み、昭和38年の『マイ・フェア・レディ』上演によってその方向が決定的なものとなったからである。
『雲の上団五郎一座』は菊田一夫作並び演出、エノケン、益田キートン、三木のり平、八波むと志、越路吹雪などが出演した爆笑哄笑公演である。俗に「アチャラカ」と呼ばれていた芝居である。このアチャラカに対する考え方は、当時から2つの方向性があるのがパンフレットに寄せられたいくつかの文章から見てとれる。ひとつは、この種の公演で経営上の安定を得て、本格的なミュージカルの追求をすることが菊田一夫の本意であろう、というものである。これは昭和35年のパンフレットに寄せられた旗一兵の文章によるが、同じようなことが菊田一夫本人からも発せられているのが『芸能』昭和36年12月号の巻頭のことばに書かれている。この文を誰が書いたかはわからないが、菊田の発言として「アチャラカで儲けて良心的な仕事の赤字を埋める」と語った、と書いている。これを受けてこの文の書き手は、これほど喜劇人を、あるいは演劇そのものを侮辱した発言はあるまい、と非難している。
もう一方は、日本の雑種文化の特徴を生かして、日本独特のミュージカルを作っていく土壌となるものである、という見方だ。
もちろん橋本治はこちらに近い考え方であろう。
では、この『雲の上団五郎一座』へ至る日本のミュージカルはどういうものであったか。『雲の上団五郎一座』から逆に辿ってみる。
『雲の上団五郎一座』は東宝ミュージカルと銘打たれており、この東宝ミュージカルは昭和31年3月に第一回公演が行われた。菊田一夫によるものである。当初菊田はミュージカルではなく、"東宝喜劇"という名称で考えていたようなのだが、小林一三が"東宝ミュージカルス"に改めたそうである。この"ミュージカルス"の名称は昭和26年2月に始まり昭和28年の第七回まで続いた帝劇ミュージカルスの流れを汲むものとの考えがあったからであろうと思われる。帝劇ミュージカルスの企画は帝劇社長の秦豊吉。第一回は菊田一夫脚本による『モルガンお雪』だった。菊田は秦豊吉と反りが合わず第一回以降は関わっていない。そしてこの帝劇ミュージカルスを「早くホンモノを作り出そうとしたために営業不振でつぶれた」失敗と考えていたようで、ミュージカルという名称を使うにはまだ早いと思っていたとのことであった。
菊田の東宝ミュージカルはアチャラカ芝居を軸に歌と踊りを入れたものから本筋のミュージカルに近づけようとしたものだったのに対し、秦の帝劇ミュージカルスは、ショー場面の多い形式から本筋ミュージカルに近づけようとしたものだった、と菊田本人が言っている。この違いが菊田と秦の反りが合わなかった理由でもあり、それは二人の出自の差でもあったであろう。
菊田は元々浅草で古川ロッパの「笑の王国」の座付作者として芝居を書く脚本家であり、一方の秦豊吉は、昭和10年ごろより日劇で日劇ダンシングチームを一から作り育て上げ、東宝社長としては舞踊レビューを成功させた人であった。
しかしこの時点での二人の目指すべき方向は本筋のミュージカルに近づくという点ではほぼ同じだったのではないかと思われる。
秦豊吉は昭和31年に癌により亡くなり、翌年には小林一三も亡くなる。そして菊田一夫はブロードウェイ·ミュージカルの翻訳劇へと向かった。
では秦豊吉の目指していたものとはどんなものだったのか。秦豊吉の著作よりいくつか引用する。
「外人にも日本人にも共通して理解され得るものを作りたい。これが将来の日本演劇の種類を豊富にし、演劇を楽しい美しいものにする一つの方法である。そこで考えるのは、やはり歌舞伎である。歌舞伎劇も今日のままでは、決して外人には楽しい芝居ではない。しかし歌舞伎のおもしろさ、美しさを、このまま私達だけで楽しんでいるのでは惜しい。外人にも楽しまれ、おもしろがられる新型歌舞伎を作ろうではないか、とまず私は考えた。」
「外人の感覚によって、今日の外人の鑑賞に堪えられるように、日本の伝統芸術の料理の仕直しである。それにはどうしても外人の手法、感覚を必要とする。それによって見直した日本の伝統である。これは古い芸能そのものでなく、古い芸能を一度全く忘れて、それから新しく作った伝統芸術でなければならない。(中略)演劇に関する限り、歌舞伎でもなく、能楽でもなく、これは言葉が通ぜずして判るコミックオペラやレビューの形式による作品のみである。帝劇の「モルガンお雪」も、この製作の試みの一つであった。」
「新しい「ミュージカル」を作る事は、どんなに困難であっても、必ずこれが最後に大衆の娯楽になる、という確信は、歌舞伎劇の歴史を見るとよく判ることで、音楽舞踊の協力を得た演劇こそ、現代の「ミュージカル」であり、過去の「ミュージカル」は歌舞伎劇であると私は信じ、音楽の力を借りないで、大衆の為の演劇、国民劇は、現在将来とも決して生れてこないと私は信じている」
(以上は昭和30年発行『演劇スポットライト』より)
「「ミュージカルス」の作者は、戯曲作法にも、音楽にも舞踊にも通じ、しかもこれを舞台に綜合する人でなくてはいけない。舞台に出る人は、歌も、芝居も上手でなければならぬ。作曲家こそ、最も大切な人であるが、オペラと違って、最も大衆の心をつかむ、楽しい曲を作り、舞踊曲にも通じてほしい。しかも、あらゆる点を通じて、最も必要なものは、現代的精神である。どこまでも出来たものは、現代の音楽であり、現代の精神であるところに、今日の綜合芸術としての「ミュージカルス」のエスプリがある。
こういう多才の人達を発見することは、中々容易でない。その上に今日の興業界は、そんな困難な新しい仕事に手を着けるか、又はそんな厄介な仕事の成功を待つほど気永でない。毎日毎日の計算が、モノをいう日本ではむずかしい。」
「それにも拘らず、今後の日本の演劇の主流は、最も大衆に愛せられるべき音楽劇だと信じている。それは日本演劇の伝統と歴史が、歌舞伎劇によって保たれてきたように、今日に於て、これに代るものは、音楽による綜合芸術としての、「ミュージカルス」であることを疑わない。」
(以上は昭和30年発行『劇場二十年』より)
秦豊吉の目指していたものは、外人をも含んだ大衆に楽しんでもらえる演劇であった。そのために言葉の障壁の少ないショー形式を重要視していたのであろう。それは自分の目の前にあった歌舞伎という日本独特の演劇から多くを学び、さらに外国のショースタイルなど様々なものを取り込んだものであった。
もうひとつ『演劇スポットライト』より引用
「私は日本の俳優が、西洋劇を翻訳して上演する事を、技芸練磨、勉強の為というならば文句は申しません。(中略)西欧の古典バレエを、舞踊の稽古の一助として習う事は結構です。しかし日本人の躰格では、絶対に西洋でいうバレリイナの美しさを得られない事は、民族的宿命であると同じように、そんな連中が、フランス十八世紀の宮廷貴人、オペラ中の人物になれるというような事を、どうして真面目に考えるのでしょうか。いつまでたっても、こんな考え、好み、浅薄な思い付では、絶対に日本に世界の人に見せられる芝居も何も出来やしません。」
秦豊吉は宝塚入社以前、三菱銀行の社員としてドイツに滞在していたことがある。若い頃に外国で外人としてショーを観る体験を直接していたことがこういった視点を生んだのかもしれない。
秦は川口松太郎に、「お前さんのやることは5年早いんよ」と言われたことがあるらしい。帝劇ミュージカルス初演の5年後、秦は亡くなってしまう。もし生きていたらどんなものを作っていたか。
映画監督及び舞台演出家沢島正継(沢島忠)は、それからおよそ20数年後の昭和58年のことを振り返って、こんなことを言っている。
「当時、演劇界は、日本全国ブロードウェイ·ミュージカルが氾濫し、猫も杓子もミュージカル、外来ミュージカルを演らないものは、演劇人にあらず、という風潮であった。
ひばりちゃん(美空ひばり)と私は、外来ミュージカルに対抗して「日本のミュージカルを作ろう」とかねてより話し合い、機会を狙っていた(中略)如何に和製ミュージカルを作る事が難事であるかを身をもって体験した」

なお、橋本治は『嘘つき映画館シネマほらセット』で「モルガンお雪」に少し触れている。いわく、モルガンお雪のことをミュージカルにして越路吹雪に演らせた昔の人は、えろうございました、と。

4へつづく
次回は帝劇ミュージカルス以前はどんなものであったか、映画監督マキノ雅弘も登場する。なお、マキノ雅弘は、昭和26年12月の帝劇ミュージカルス『お軽と勘平』の映画版『おかる勘平』(昭和27年)を監督している。


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