橋本治と落語 5
第一次落語研究会の面々について少しだけ。
まずは言い出しっぺの圓左。落語研究会を産み出した人だけあって藝の虫と言われ、技芸に忠実で、かつ師匠から譲り受けたもののみならず、常に新作を作り出すことを心がけていた人物であった。客を笑わせる落語にかけては天下一品だったようである。日頃は駄洒落ばかり言っていたという話もある。惜しむらくは、明治42年に57歳という若さでなくなってしまったことであろう。
続いては圓喬。話の巧さ特に人情噺においては誰もが認める、圓朝に次ぐと言われた名人。ただ人間性に難があったとかで、楽屋内で煙たがられ、圓朝の名を継ぐことはなかった。彼も大正元年48歳の若さでなくなった。
最終的に圓朝の名を継いだのは圓右だった。二代目圓朝として高座にあがることはなかったが、晩年にその名を譲り受けた。
技芸においては圓喬、圓左には及ばなかったようであるが、芝居上手のよい男だったとか。ただずぼらな性格でよく高座をサボったり話を忘れたりすることもあったとか。大正13年になくなった。圓左、圓喬より長命だったこともあり、後世への影響は一番大きいかもしれない。
発起人6人の中で唯一の柳派だった小さん。巧さにかけて圓喬と並び称される存在。夏目漱石にとっては、二葉亭四迷における圓朝のような存在だとか。
気違い馬楽といわれた蝶花楼馬楽(三代目)は、名人上手ではなかったが、警句(皮肉)頻発の語り口で、学んで得ることができない独特の呼吸で人気があったという。日常生活においても浮世離れしていたようで、それが"気違い馬楽"と呼ばれた一因のようである。大正3年に49歳の若さでなくなった。
元々は大阪者だったむらく(後の三代目圓馬)は、大阪種の話を東京風にアレンジするような勉強をよくしていたようである。彼は大正5年に、師匠である橘之助とのことで圓蔵を殴打する事件を起こし、旅廻りに出ることとなった。
圓左、圓喬がなくなり、大正中期ごろとなると、東京落語会にも動きが起こる。大正6年に給料制の演芸会社が発足するも、下積み連中の給金に対する不満から1年で立ち消え、小さん、圓右による協会と左楽、志ん生による睦会が誕生。この2つも東西会、三語楼協会、新睦会などと併合離散。震災後に各派合同の落語協会ができるも、こちらも震災以前の派閥の影響によりいくつかの分裂や合併を重ねることとなり、最終的に、昭和初期には、東京落語協会、三遊睦会、三語楼協会(のち日本芸術協会)の三つ巴状態に落ち着く形となる。
この状況とは別に、昭和9年東宝が東宝名人会を開始した。その趣旨は、震災前まで行われていた東西名人会を模範とするもので、落語講談音曲など、古きも新しきもあまねく名人の至藝を一夕にお見せしようというものであった。
第一回は9月に開催されたが、この会が、早速上記の落語協会、睦会、日本芸術協会および都下の席亭から物言いがついたのだった。いわく、東宝名人会に出席するものは、会を除名、都下の寄席には出席させないというものであった。これにより、東宝名人会へ出続けた落語家は、当初の契約(特に東宝専属の契約ではない)を無視するわけにはいかないと決断した金馬(三代目)と小さん(四代目)のみであった。
翌昭和10年この名人会の顧問に森暁紅が就任する。その推薦人は、宝塚社長小林一三の慶応同窓生であった岡鬼太郎だったという。
そうした動きの中、震災で中断していた落語研究会は、昭和3年に第2次として再開。第1次の発起人メンバーは小さん(三代目(昭和5年没))のみとなってしまっていたが、後見人は今井次郎、岡鬼太郎、森暁紅など第1次と変わらず、その、落語の本道を残しつつ、新作ものもつくる勉強をしていくという意思は受け継がれる形となっていた。
昭和10年、皮肉なことにも、上記東宝名人会の顧問に森暁紅が就任したことにより、落語研究会の舞台が東宝に移ることになったのである。当然落語家は東宝系のみとなるが、この頃には金馬、小さんのほかに、会を脱退した馬楽(のち正蔵(八代目))、不遇でいたところを名人会が抜擢した可楽(七代目)がいた。
そして結局翌11年の11月頃には落語会と寄席の同盟もその内部から崩壊することとなり、東宝と和解。研究会、名人会ともに誰もが出席できるようになったのであった。
戦争で研究会·名人会ともに中止を余儀なくされるが、戦後いずれも復活。しかし、落語会の妙な派閥争いのようなものに巻き込まれるようにして、研究会は、第一次を少し歪んだ形で神格化するようなものに変わっていってしまったのではないか、と私は考えている。
そしてそれが昭和30年代へと続いていったのではないかと。
つづく