橋本治の後期雑文を読む10
『演劇界』2013年11月号特集:江戸の名優怪優より「江戸の役者に憧れて 大太夫半四郎」
鶴屋南北の台帳を読んでいると、魅力的な役者だらけでうっとりする。下端の役者に至るまで、南北が個性をつかまえて役に活かしているので、読み慣れると声が聞こえて仕草まで見えるような気がする。
南北の書いた文化文政期の役者達の中で、特に好きな役者は二人いる。一人は「名人」と言われた二世関三十郎で、もう一人は「大太夫」と言われた五世岩井半四郎。
関三十郎は地味な人だからそんなに知名度はないだろうけれど、南北はこの人に、辛抱も辛抱のとんでもない複雑かつ地味な役を与えてしまう。
もう一人の大太夫半四郎は、私にとって最高の女方で、南北が彼のために創り出した役柄を見れば、そのすごさが一目瞭然で分かろうというものだ。鶴屋南北のイマジネーションを最高に刺激して、女方の可能性をどんどん広げてしまった。
文化期の半ば過ぎまで、半四郎は実悪の幸四郎、立役の三世坂東三津五郎とトリオで、勝俵蔵時代の南北が発表する生世話の舞台を創り上げる。「腕のある女方なんだろうな」とは思うが、まだ五世岩井半四郎らしさが発揮出来ているとは言えない。それが文化十年のお染の七役以来、五年ほどの間に行くところまで行ってしまう。
半四郎の芸風は、派手で可愛いことだ。
江戸の浮世絵で現代風の「可愛い」を表現するのはむずかしいから、浮世絵に描かれた彼は、「異様」ではあるのだが、今の目で「異様」と感じてしまうところは、濃厚に江戸的な歌舞伎味なんだろうと思う。
六十歳を過ぎた彼が、病気で休演した息子の代役で、「十種香」の舞台に八重垣姫で出た。当時的な常識からすれば、それは若い女方のやるようなものだから、意地悪な当時の観客は、幕が開くと「よ、大和屋のお嬢さん!」と皮肉を飛ばした。ところが、後ろ向きで勝頼の絵像に手を合わせていた八重垣姫が客席の方に向き直った途端、あまりの可愛さに客席は度肝を抜かれたという。
その話を若い時に知って、「素敵な伝説だな」と思った。技術的に「可愛く見せる」という演技が可能だとは思わなかったのだけれども、六世中村歌右衛門が国立劇場でやった通しの『本朝廿四孝』の八重垣姫を見て、「大太夫の伝説は本当だったんだ」と思った。さすがの歌右衛門も若くはなかった。その八重垣姫は信じがたく可愛かった。そういう生きた伝説を目の当たりにして、とても幸福だった。
『kotoba』第14号2014年冬 特集:美術館を"発見"する
より、インタビュー「イヤホンガイド」は損ですよ
おすすめの美術館:白馬三枝美術館、東京国立博物館、東京藝術大学大学美術館
三枝美術館がいいのは、白馬を描いた作品ばかり飾ってあるから(笑)。すぐそこにある風景を描いた絵だから、現物との比較もできますし、もうなくなってしまった地元の風景を絵として見ることもできます。
どの絵のグレードも普通よりちょっと上というあたりで、描き手の個性がうるさく主張してこない。メインは題材の景色の方だからです。
「地元の風景」という一つの企画展を年がら年中やっているのと同じ(笑)。無理やり妙な戦隊ヒーローを作るより、本当の町興しで地域愛だと思います。
(----美術館で絵に触れる時、それぞれの作品のバックグラウンドぐらいは頭に入っていた方が、理解の助けになりますよね?)
いや、そういう考え方は間違いじゃないでしょうか。今はどの美術館へ行っても、企画展だとイヤホンガイドをやっているでしょう?やめた方がいいですね。耳で説明を聞いていたら、目がおろそかになる。他人の説明に合わせて、「なるほど」と納得するのが、一番つまらない絵の見方です。「他人がなんと言ったって、俺、これ嫌い」「どうでもいいじゃん、こんなもん」と思いながら歩いていた自分が、ある作品の前でふっと向こうから何かが出てくるのを感じて立ち止まるというのが重要なんです。
絵は初めて見た時と、二回目、三回目とでは印象が違うということがよくあります。そういう自分の感覚を信じて実物に向かわないのは損ではないかという気がします。絵が与えてくれる、ある種のインパクトを自分で抱え込むことが不安だから、説明を聞くなり読むなりしておとなしく収めようとするのかもしれないけれど、それをやると美術が"教養"になってしまいます。なんの役に立つのかわからないけれど、美術から受けた感覚的な影響みたいなものを自分の体に残していくことの方が、生きていく上ではずっと重要だと思います。
私は美術館の絵を見て、ただ単純に「うまいなあー」って思えれば、それだけでうれしい。だから自分にとって美術館とは、音が出ない映画館みたいな感じかもしれません。
日本人は、まず見るという訓練ができてないから、説明偏重になるんです。文章でビジュアルを理解しようとしすぎるから、絵に入っていけないんだと思います。
作品と対峙した時に、「はて、これはなんだ?」とひっかかるものがあったら、その印象を自分でどう表せばいいんだろうと、あれこれ頭を悩ませるレッスンを繰り返していかないと、絵との豊かな付き合いはできないのです。