橋本治の後期雑文を読む12
2014年9月発行『天野祐吉 経済大国に、野次を』より「一流の人」
意外と思われるかもしれないが、天野さんは「当たり前のことを言う人」です。
天野さんは世間常識の具合を十分に承知していて、しかしそれに媚びません。それで、天野さんは「当たり前のことを言う人」とは思われないのかもしれませんが、天野さんは「当たり前のことを言う人」です。
世間常識から少しずれたところで「当たり前のこと」を言うのは大変です。それは、「当たり前のこと」からずれてしまっている世の中に対して、「違う!」と言うことだからです。
「当たり前のこと」というのは、最もシンプルな「まともなこと」です。
私が『広告批評』と関わりを持ったのは三十代の中頃ですが、その頃の天野さんはもう「大人」で、その後も一貫して「大人」でした。だからやんわりと物が言えて、頑固です。私の三十代中頃の時期は「いい年をして大人だか子供だか分からないへんなやつら」が輩出した時代で、言ってみれば「大人」の価値が揺らぎ出すような時代です。私なんかは、その「わけの分からないやつら」の最尖端の一人ですから、普通の大人は近づきません。でも、天野さんはこわがりませんでした。私が三十代だった1980年代の間、私の原稿執筆が大きく『広告批評』誌に傾いていたのは、そのためだったと思います。他の雑誌からは原稿依頼が来ないし、来ても没になっていただろうと思います。
天野さんがどういう人かを言うのは簡単です。「一流の人」です。自身の最後の著書で《日本は一位とか二位とかを争う野暮な国じゃなくていい。「別品」の国でありたいと思うのです。》と書いた天野さんなら、下に「二流」を存在させてしまうようなこの序列の言葉が好きではないかもしれませんが、「一流」というのはそもそもが「独自のあり方」です。だから、「一流を立てる」という表現があります。自分が独自のあり方を示すのが、「一流を立てる」です。立てて生き残らなければならないのだから、その「一流」は当然「いいもの」です。そんな「一流」が二つあれば、「天下に二流あり」です。
さすがに広告出身の天野さんは「訴求力」というものを心得ています。聞き慣れない《別品の国》の方が、思う人には「そうか、《別品の国》か」とすんなり納得させます。「ちょっと違う響きを与えた方が、当たり前のものでも通りやすい」という発想でしょう。「当たり前のこと」を言うのは、言葉の錯綜する現代ではとてもむずかしいことです。
『學鐙』2014年秋号より「問題の立て方」
三十代の中頃になって、「自分は壁にぶつかってる」と思ったことがあります。スランプであったのかもしれませんが、「なんかへんだな」と思って、「自分は壁にぶつかってるんだ」と理解しました。
「どうしたらいいのか分からないこと」にぶつかってしまうと、「どうしたらいいのかな?」と考えはするものの、当面は「どうにもならない状況」の前でぼんやりして遊んでしまうのが私の常なので、「壁にぶつかっている」と思いながらも、どこかで遊んでいました。そして突然あることに気がつきました。「自分は壁にぶつかっているんじゃない。ただ、壁に寄っかかっているだけなんだ」と。
そうなって初めて、「自分は楽をしようとしていたんだな」ということに気がつきます。
「壁にぶつかっている」と思った自分は、「壁の向こう」へ行きたがっていたのです。なぜ行きたかったのかと言えば、「壁の向こうに行けば楽が出来る」と思ったからです。だから「壁の向こう」をゴールに設定していたのです。
人の侵入を阻む壁の向こうへ行って、なにかいいことがあるのでしょうか?来る者を阻んでいる壁の向こうに、たいしていいことがあるとは思えません。方向を変えて、壁を背にして見れば、行く手は遮るもののない広大な砂地です。やるべきことをする余地はいくらでもあります。でも、そこでなにかをするのはいたって困難なことです。でも、進むのだったら、来る者の侵入を拒む壁のある方向ではなく、壁のない方向でしょう。
後は、壁から離れるだけです。「自分のやるべきことは、壁のある方向にはない」と思って歩き出して、しばらくすると私の後ろで壁が音もなく崩れ始めました。「そこへ入ろう」という意思を持たない人間の前で、阻む壁は意味を持ちません。おそらく、崩れてしまった後の壁の廃墟にも、なんの意味もないでしょう。既に「目的」とされる方向が違っているのですから。
現代人は、いつの間にか「困難」というものを忘れてしまったように思います。「目の前に壁があるな」と思って、それを睨みつけたり、あるいは泣いて哀訴をして、壁が崩れるわけではありません。「壁がある」というのは、ただ「困難がある」というだけの話で、だったら苦労をするのは当たり前です。
困難の前に「手っ取り早い打開策」はありません。ただ試行錯誤を繰り返し、もがき苦しむだけです。その「苦労」が報われるかどうかも分かりません。でも「いつかはなんとかなるはず」と信じて、苦しむのなら苦しむのです。それが「信念」で、もしかしたら「信仰心」かもしれません。でも、どうにもならない時はどうにもならず、「この苦しい問題を解決しようとする努力が、後の世にもバトンタッチされればいいな」と思って、黙って死んで行くのです。