精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その二

沢田正二郎という人がいた。彼は演劇としての"チャンバラ"を生み出した人である。彼が作った新国劇という劇団が剣劇というジャンルを拓いたのである。
チャンバラ映画は歌舞伎から多くのものを受け継いでいるが、チャンバラであるところの立回りは受け継いでいない。
歌舞伎は、見せ場はスローモーションでお送りします、というようなものなので、立回りは大掛かりになればなるほどテンポが落ちる。沢田正二郎は、これを、今現在普通に見られるようなテンポに変えたのである。
ではこの沢田正二郎はどこから出てきた人物であろうか。
この人は明治25年生まれの早稲田大学英文科卒のインテリであった。早稲田では坪内逍遙が講義をしており、その生徒達と文芸協会と俳優養成所というものを作る。俳優養成所は日本で最初のもので、ここから女優というのも生まれる。
文芸協会には、逍遙の愛弟子島村抱月、女優の松井須磨子、そしてこの沢田正二郎もいたのである。
島村抱月が松井須磨子と出来てしまい、それが逍遙の逆鱗に触れ、文芸協会は解散、抱月は須磨子と芸術座を作る。居所を失った沢田正二郎もこちらに移る。劇団の主宰者である島村抱月は高邁な理想を掲げる理論家であった。そんな彼は松井須磨子と出来ているので、劇団は松井須磨子の女天下であった。そんな状況に若くて理想に燃える青年沢田正二郎が面白いわけがない。彼は芸術座という高級な世界を飛び出して新国劇を立ち上げる。
立ち上げたものの客は来ない。東京がダメで大阪へ行き、そこで演劇の興行師だった"松竹"の白井松次郎と出会って提携、剣劇(立回り)を最大の売り物として独自の位置を獲得していくこととなる。
橋本治は、沢田正二郎の偉大さを、チャンバラを作ったことと、もう一つ、剣劇を流行らせたことで、大衆演劇を作ってしまったことだ、と言う。
大正の初め頃は、日本の演劇と言えば、歌舞伎か新派か新劇しかなかった。理論に拠る新劇は難しく高級で、大衆にとって手頃なものはなかったのである。そこへリアルな立回りを演じる新国劇が登場し、人気を獲得、そういうものを見たいという観客の欲望が刺激されたのである。これにより大昔から存在する旅回りの一座(ドサ回り)の演目に剣劇が加わるのである。ドサ回りと言えばこれ以前は歌舞伎しかなかった所へ、チャンバラが欠かすことのできない重大な一項目となったのである。
そしてそんな影響力を持った沢田正二郎がやったもっと重大なことは、新国劇の舞台であらゆるジャンルをゴタマゼにしてしまったことである。新劇真っ青の外国の前衛劇もやれば、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』も『勧進帳』までも上演している。自分はやりたい、観客にも分からせたい、と率先して"大衆"という泥沼のようなところへ降りていった人なのである。
沢田正二郎が新国劇を結成したときに掲げたスローガンに"半歩前進主義"という言葉がある。沢田が38歳の若さで亡くなってしまったその後に出来た新国劇の団歌にその正体が伝わっている。
右に芸術 左に大衆
かざすマークは柳に蛙
若いわれらは日も夜も歩む
沢田譲りの半歩主義

"右に芸術左に大衆"というのが半歩主義の根源である。
右の芸術と左の大衆の間にはギャップがある。このことの前提には「大衆には芸術が分からない」という考えがある。この場合の芸術とは、沢田がそこから降りてきた"新劇"という劇芸術である。そこには理念だけで現実なんかかけらもない。"新劇を見に来る客"という選ばれた観客を棄てて、退屈で勝手の違う芝居に対しては平気で酔ってクダを巻く観客を選んだというその瞬間に、沢田は"一歩"を断念させられたということを引き受けなければならなかったのである。"半歩"とはそんな屈辱を前提にした言葉なのである。
しかし沢田のしたことは確実に一歩だった。ただ自分の理想には届いていなかったから"半歩"と言っていたのである。沢田にとって大衆の支持を得るというのは、まだ"半歩"だったのである。
38歳で死んでしまった沢田正二郎が新国劇を結成したのは25歳だった。この13年は、男の一生の中では"半歩"でしかなかった13年だと橋本治は言う。
沢田が死んだ昭和四年、サイレントのチャンバラ映画が軌道に乗っていた年で阪東妻三郎、嵐寛寿郎、大河内伝次郎、市川右太衛門が活躍していた。正に"半歩"は確保できていたのである。
では残りの"半歩"とはなんなのか。
この残りの"半歩"が大変なものなのである。

その三につづく







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