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キモさとエモさとエロさは紙一重「創作やアートは排泄行為である」承認欲求に苦しんだ時の処方箋

(約6200字)

noteのタイムラインを眺めていたら、かねてよりひそかに注目しているクリエイターさんの内のひとり、西瓜(すいか)さんのこちらの記事が目に入ってきた。

noteの文章を書くのは排泄行為みたいなもので、自分の思考の中の老廃物をあつめて、かためて、外に出す行為であると思っている。

同記事『文章のアウトプットの麻痺』より抜粋

「文章を書くのは排泄行為みたいなもの」というくだり。
おお、西瓜さん。私もまさにほぼ同じことを思っていましたよ!「アートは排泄である」と。
まさかnote上で、こんなシンクロニシティに遭遇するとは。

「アートすなわち創作活動とは、排泄行為である」
「創作品とは排泄物である」

これぞまさに、noteで私がずっと書きたかったこと。
…でもテーマが若干重めだし「排泄」というワードが下ネタ寄りだし、どう書こういつ書こう?…と躊躇し、記事ネタ化のボーダーライン上をさまよっていたのである。


1.  「創作=命を生み出す神聖な行為」という固定観念


プロフィール記事でも触れたが、私の得意分野は絵を描いたり裁縫をしたり文章を書いたりと「何かを作り出すこと」だ。

出来映えがどうであれ、作ったものはすべて「丹精込めて生み出し、手塩にかけて育んだわが子同然」と捉えていた。

社会一般的にも「手作り品とは、手間と労力をかけたぶん愛情がこもっており唯一無二で尊いもの。市販品とは訳が違う」という「手作り礼賛」的な風潮があるように思う。

世間の同調圧力が苦手で、普段は大多数のメジャーな趨勢に天邪鬼に反応しがちな私自身ですら、この通念に対しては一切の疑問も持たず何十年も生きてきた。

ところが今年、とある出来事をきっかけにこの通念が根こそぎひっくり返ったのだ。

2.  作り与える側vs受け取る側、双方のズレ

話を少しさかのぼる。
これまで私は基本的に、自分が作った作品は自分自身のコレクションとして保管していた。

だが時としてそこにとどまらず、家族や親友、好きな異性など「特定の他者」に対する想いが募り、彼(女)らに向けて創作し、出来上がったものを捧げてきた。
すなわち、

  • 絵→本人のポートレートイラストとして。

  • 縫い物→本人に似合いそうな服飾グッズとして。

  • 文章→手紙あるいは恋文として。

要は「プレゼント」である。

相手に渡した時、本心から嬉しそうに喜んでくれるなど、何らかの好意的な反応が返ってくれば、私も嬉しさが倍増し「作ってよかった、渡してよかった」という安堵感に包まれた。
双方ギブ&テイクが循環し、喜びと充足感が自然に広がっていく感覚だ。

しかしこれとは真逆に、相手がドン引いて困惑したり、反応が乏しかったり全くの無反応だったこともある。

大きな理由として考えられるのは、作り手であるこちらの想いが一方的に暴走し、自分と相手の熱量にギャップが生じてしまうことだ。

このように、相手のリアクションがマイナスからゼロ、もしくは不明であった場合、たちまち私の脳内で
「自分がやらかしてしまった事への後悔感」
「自分の想いを相手に無理やり押し付けてしまった感」
「相手や第三者から’イタイ’としか見られないであろう屈辱感」
で居たたまれなくなり、この上なくブザマで醜悪なものに暗転するのだった。

ひどい時は、わが子同然である作品と、それを生み出した母体である作者の私自身の両方、母子ともに揃って全否定されズタズタに引き裂かれ、奈落の底に突き落とされたような感覚におそわれた。
そしてしばらく無気力状態が続き、リカバリーに数日かかった。

大袈裟でもなんでもない。
惨めな気持ちを精一杯言語化している。

3.  長年の思い込みがひっくり返った

ところがだ。

上述したように、今年の春先にとある人と対話をする中で、突如私の中でコペルニクス的転回が起こったのだ。
それは何かというと、

そもそもあらゆる創作活動とは「(かけがえのない新たな命の)出産」というよりむしろ「(止むに止まれぬ)排泄」である、と定義する方が妥当じゃないか?

つまり「創作行為とは’排泄’と同義である」という仮説が浮上したのだ。

創作表現とは「対象物を感じとり、体内に取り込み咀嚼・消化し排泄に至る」という一連の生体の消化プロセスに他ならない、というわけだ。

創作者すなわちアーティストの表現への欲求や衝動とは、本能的な生理現象とほぼイコールである。表現として形に出さないとやっていられない、そうしないと生きていられない感、リビドーそのものなのだ。

これは、実生活の中でも身体感覚として大いに心当たりがある。

ある体験なり出来事なりで心が大きく揺さぶられると、身体の奥から無性にワクワクとエネルギーが込み上げてきて、下腹部の丹田あたりが急速に活性化される。

次いで、丹田近辺に位置する大腸も刺激を受けて蠕動運動が促され、その結果便意を催してトイレに駆け込む、というビリヤードの玉突きのような現象が発生する。

ここで、上記の引用文に引きつづいて。

そして、排泄と同じく、綺麗に出せたら気持ちいい。
文章に起こすことで得られる快楽を以前の私は知っていて、その快楽を得るために文章を沢山書いていた。
しかし、今の私は難産。
今の流れで『難産』と喩えてしまうととても妊婦さんと赤ちゃんに失礼なので、普通に『便秘』とかの方が良かったな。

同記事『文章のアウトプットの麻痺』より抜粋

西瓜さんも、自身のままならない文章創作を『難産』から『便秘』に喩えているではないか…!!

これを読んでいるあなたにも、ご自身の創作活動においてこの一連の生体反応に心当たりはないだろうか?

* * *

作品とは一種の排泄物、要するにウンコであるという仮説。

作品はウンコなのか…。
私はただ、己の欲動の赴くままに、対象物のイメージを自分の内側に取り込み消化し排泄しているに過ぎなかったのか。

いいも悪いも美醜も上手い下手も関係なく、一連のプロセス全てが私の命の摂理だったのか。

パッカーンと、何かが弾けた。

’排泄作品’が放つ臭気に眉をひそめて顔を背ける人もいれば、この匂いこそがたまらん!イイ!と気に入ってくれる人もいる。

あまつさえ作者に対価まで支払いその'排泄作品'をわがものとし、新たな生命エネルギーに転化して、文字通り’肥やし’にしてくれる奇特な人もいるのだ。

’排泄作品’が美しく輝かしい宝であるか、将来有望な金の卵であるか、どこにでもある平凡な取るに足りないものであるか、悪臭を放つ大便さながら嫌悪され蓋をされ存在すら否定されるか云々は、100%それを受け取る個々のジャッジに委ねられるのだ。

相手は相手なりの事情やバックグラウンドに基づいて、相手なりの反応をしているだけだ。

他者が何を感じ取り、私に対してどんな反応を返そうが、こちらとしてはどうしようもできないし、極論どうだっていいのである。

4.  創作とは、己が内臓の襞を晒す覚悟が問われる行為である

作品を’排泄物’に喩えることにより、合点がいく側面はもうひとつある。

排泄物とは「口から取り込んだ食べ物が咀嚼され身体の中の内臓を経由し、化学変化を起こして姿を変えて大便となり肛門から外界に出てくるもの」である。

すでに触れたが、私は今までの人生で幾度か、強い恋心を抱いた男性に向けて、想いの丈を込めて作品を創り出してきた。

「この作品を何としても完成させ、彼に捧げたい」という切実さのほうが、羞恥心や罪悪感をはるかに凌駕していたのである。

たとえ自分が恥をかいても、後々気まずくなってもなお、私は自分の本音を白日の元に晒し、あなたに真っ直ぐ差し出す他に選択肢がないのだ、という。

しかしいざそれを当の相手に委ね渡す瞬間は、えもいわれず面映く居ても立ってもいられなくなった。

まるで、自分の内臓の内壁の襞を相手の目前に晒け出す露出魔のようだった。そこには激しい羞恥心と興奮が入り混じった狂気が伴っていた。


そうか。そういうことだったのか!

そりゃよりによって'自分の排泄物’なんかを恋する相手に渡すなぞ、正気の沙汰ではない。
とんでもなく恥ずかしいし罪悪感すら感じるのは当然だ。

狂気じみた勇気ぐらいがなければそれを実際に手渡すなど到底無理だよな、と。

相手にしてみれば、唐突に私から’排泄作品’などを半強制的に受け取らされた日にゃあ、まあまずはギョッとするだろう。

生々しいグロテスクな排泄物が眼前に突きつけられ、反射的に顔(心)を背けてしまったり、こちらの想いが重すぎるあまり、それを受け取ることを全力で拒むことがあっても当然だよな…納得するしかない。と。

厄介なのが、こちらも自分の生み出した作品を、相手が喜んで受け取って欲しい、あるいは受け取ってしかるべきといった「過剰な期待圧」を発動しがちなことである。

それは相手に対するコントロール欲求、つまり支配欲に姿を変え、同時に自分自身をも苦しめる。

排泄物ごときに自分も相手も振り回されてしんどい思いをするのって、冷静に考えれば滑稽でしかない。

こうなれば、ただひたすらに己の欲動に従い作品を’排泄’し、勇気に狂気を重ねて恋する相手に捧げる。結果がどうなろうと構わない。

私が渡したいから渡すまで。相手に拒絶され得ることも承知の上で、どこまでも自分が自分自身であることに注力するしかないのだ。

これをさらに俯瞰すると、
私が、自分の作品(排泄物)の出来栄えが相手にどう思われるか、よく思われたいとつい気にしてしまうこと。

渡された相手も、私によって捧げられた作品(排泄物)により、相手の内側にピンキリの様々な気持ちが湧き起こり得る、ということ。

とどのつまり、創り手と渡された相手、双方それぞれに自身の内側にある自然現象に従って期待したり喜んだり落胆したり冷淡になったり無反応でいるに過ぎない。

これも広い意味で大いなる自然の摂理の一部なのだ。


一連のことが心底肚落ちした。

そしてヘナヘナ腑抜けし放心状態になると同時に、これまでずっと両肩にのしかかっていた重苦しい承認欲求というエゴの塊が、一気に降りた。

この発想の転換は、私にとってとんでもない革命であった。

5.  排泄か出産か自慰行為か

百歩譲って、創作行為を「低俗で下品な排泄などというものではなく、あくまで高次な営みで、新たな命をこの世に送り出す出産に譬えるにふさわしい」と定義するとしよう。
そして生み出された作品は、作者にとってかけがえのないわが子同様であると仮定しよう。

しかしたとえそれとて、生まれ出たわが子が産みの親の思惑通りに、自身を引き渡された先の他者に必ずしも喜ばれ重宝されるとは限らない。

ウンコであろうが赤ん坊であろうが、作者の身体から排出してしまったものは不可逆だ。元のサヤには戻れない。

親である創作者の手を一旦離れると、ウンコも赤ん坊も独立した存在となり世界に露呈するのみだ。

究極、その後どうなろうが野となれ山となれ、なのである。

* * *

noteを徘徊していると「創作は排泄」説に関連して、他にも似たトピックの記事をちらほらみかける。

その中に、クリエイターの創作活動を自慰行為になぞらえた内容の記事があった。

その記事は、ぱっと見洒脱でユーモアに富んでいた。
だが、それと同時に文章の端々から、読み手の羞恥心や罪悪感を煽ろうとする意図も感じた。

一見軽妙な語り口だが、面白おかしく性的などぎついワードを用いることで読み手の揚げ足を取り不快感を掻き立て、彼らの心を巧妙に弄ぶことによって嬉々としているエネルギーバンパイアのような、そんな匂いを察知したのである。

いやでも、そう批判するあなただって創作を排泄物やウンコに喩えており、それ自体がすでにクリエイターである読み手の嫌悪感を煽っているんでは?と反論されるかもしれない。

しかし私は、不愉快になるであろう読者が一定数いることを覚悟して、あえてこの仮説を主張する。

少なくとも私自身に関して言えば、自分の創作活動を「出産」ではなく「排泄」に喩えることでむしろ心が軽くなり、余計なプレッシャーから解放されて気持ちが楽になったからである。

もっというと「自慰行為」もつきつめれば生命の営みに通じる動物の本能に沿った性行為の一種である。

公序良俗の建前上、パブリックな場でオープンにすることを憚っているだけで、自慰行為だって、元をたどれば排便排尿クシャミあくびシャックリと同様、生き物としての自然の発露の一部に過ぎない。

否むしろ、今流行りの生成AIなどには決して真似することのできない、生身の人間にしか成し得ない創作活動の上では「身体性を伴う独りよがりなエロティシズム=自慰行為」は必須項目なんじゃないか。

表現活動における下ネタワードにせよ、笑いのユーモアにせよ、どんなトピックでどこまで許容されてどこからがNGであるかは一概に決めつけることは出来ないだろう。

しかしながら、それを用いる作者側の人としてのあり方、意図、どういう枠組みで世界を捉えているかというベースの認識(より高尚な言葉で表すと、依拠する思想や哲学)の如何が、それこそ記事というアウトプット=’排泄物’に如実に反映されてしまうのだ。

そして私個人は、上記の「創作は自慰行為だという説」というアウトプット=排泄物を、このように感受し反応した。

6.  意志ある排泄としての創作

私はこのnoteの片隅で、自分の内なる自然の摂理に従い、今日も粛々と排泄し、はにうらのアカウントページという’ギャラリー’にこれらアウトプット='排泄物'をひとつひとつ陳列している。

さまざまな’排泄物(=記事)’のタイトルを物珍しそうに、あるいは興味深く目を止めてクリックしてくださる方。

あるいはタイトルを見た瞬間、強烈な臭気に眉をひそめて避ける方。

特にどのタイトルにも引っかからずスルーする方。

読者目線で何を感受しどう反応するかは読者各々の興味関心、背景によって千差万別なのだ。

そして、はにうらという書き手=’記事の排泄主’による特大級のブツを成しているのが、固定ページの記事である。この記事は、主の思い入れが強く独断で有料としている。

このブツがいい!話の続きがお金を出してでも欲しい、という奇特な方に向けて、すぐにでも入手していただけるよう、店頭トップに並べている。

こちらがその特大級ブツである有料記事

つまるところ、私にとっての創作とは「意志ある排泄行為」なのである。

7.  只ならぬ人物、西瓜(すいか)氏

西瓜(すいか)さんの記事が、奇しくも今回私がこの記事を生み出す/排泄するにあたって、私の創作活動の蠕動運動をピンポイントで促してくれた。

誠に勝手ながら、今回の私の記事制作において西瓜さんの記事が不可欠であったこと、心から感謝の意を表したい。

ご自身のアカウントページから、ただならぬ’虚無オーラ’が漂っている西瓜(すいか)さん。

ご本人の書いた記事が、あちこちで様々なクリエイターさん方により積極的に引用されているところを見るにつけ、やはりこの方は只者ではないと確信している。

(7章タイトル表記中の敬称を「さん」ではなく敢えて「氏」としたのはこの理由からである)

西瓜(すいか)さんとは、ひたすらピュアでミニマルな’陰’の力で周囲に様々な気づきを呼び起こし、多大な影響力を及ぼす、実はとんでもない才能の持ち主なのではないか。

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