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「ハングルース」に込めた願い

わたしのSNSのアカウント名は、「hangloose」と「5」を組み合わせている。
これはかつてのわたしが、自身に込めた願いだった。

出どころは、この小説。

わたしはいまでも鷺沢さんを愛している。
できれば、会いたかった。直接話したかった。
いまの時代を生きる鷺沢さんに、会ってみたかった。
笑い声を聞いてみたかった。

わたしが高校生のとき、鷺沢さんは亡くなった。
そのときのことを、今でも覚えている。
母が、「遠くの友達がいなくなっちゃったみたい」と呆然としていた。
当時の母は、鷺沢さんのホームページを見て、コメントをしたりしていた。
だから、「遠くの友達」という感覚があったのだと思う。
いまよりもインターネットを使っている人の数は少なく、鷺沢さんのような作家さんとも、気軽におしゃべりができる時代だった。
15年ほど前のことになる。

「母をこんなにも動揺させたサギサワサンって、何者だろう」と思って、
わたしは鷺沢さんの死後、著書を読むようになった。
あれから15年。
わたしはいまでも、鷺沢さんを愛している。

鷺沢さんの長編小説でいちばん好きなのは「ハングルース」で
引っ越しのときに見当たらなくて、泣くほど落ち込んでいたら
同居人がハードカバーで買い直してきてくれて、泣くほど喜んだことを覚えている。
これで生きられる、と思った。
いまでも大切に、本棚に並んでいる。

「ハングルース」っていうのは、ハワイの挨拶で「気軽にいこうぜ」みたいな意味らしい。
この小説の中でも、いかつい男がニカッと笑って、手を振るとき
ジャンケンの「グー」ではなくて、親指と小指を断てて、手のひらを見せてひらひらと振る。
「親指と小指くらい遊ばせとけってことだ」というセリフは、いまでもわたしの心臓に焼き付いている。

必死になると、ぎゅっと拳を握ってしまう。
奥歯を噛み締めてしまう。
そのときに、何度でも思い出せるように。
「親指と小指くらい遊ばせておく」余裕と、チカラの抜き方。

何年か前のわたしの読み通り、この大切なことをわたしはすぐに忘れてしまう。
必死になりすぎてしまう。

今日は、大学時代の後輩がツイッターで声をかけてくれたので、思い出せた。
肩の凝るような、必死に握りしめてしまっているような記事とツイートをしたあとのリプライだった。

もっと適当でいいんじゃないですか?

そうだ、大学時代は「適当でいーじゃん」てよく言ってた。
ハングルースが、わたしのことを守ってくれていた。

いまもう一度、わたしは自分に魔法をかける。
ハングルース、親指と小指を遊ばせるような身軽さで、次の冒険に出る。
それは投げやりになるということや、逃げることではない。
ひとつひとつの丁寧さと、真摯さを失わなければ
ハングルース、それでいいじゃないか。


「5」という数字も、この小説からもらっている。
ランニングをしている主人公が「次の電柱まで、あと5メートルだけ」と言って走るシーンだ。
この気持ちも忘れたくない、と思って選んだ。
そう、あと5メートル、5メートルだけ……
走っているのは苦しい、でも、あと少しだけ、少しだけでいい。

この感覚は、スガシカオさんの名曲「Progress」の
「あと一歩だけ前に進もう」も彷彿させる。

あと一歩だけ、5メートル、ほんの少しだけ
そしてわたしは今日も、親指と小指を遊ばせながら、くるくると手をふることにする。

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松永ねる
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