心理試験 / 探偵 鞐 柊一郎の事件簿 (短編脚本)
○登場人物
・犯罪心理学に詳しい探偵 鞐 柊一郎(こはぜしゅういちろう)
・夫を殺したいほど憎んで愛している妻 臨海 亜希子(りんかいあきこ)
・彼を愛しているがゆえに殺したい愛人 早乙女 瑠衣子(さおとめるいこ)
・刑務官A・B
時代は昭和二八年。場所は古めかしい武蔵野の警察署。
殺人事件は「東京大学 教授 応用物理学博士・臨界薩夫が、自宅裏の雑木林において斧で首筋を何者かに断ち切られて死亡したこと」
容疑者は諸般の捜査の末、妻・亜希子と愛人・早乙女瑠衣子に絞られたが、どちらにも動機がありアリバイがない。自白もない。確たる証拠もない。
捜査に息詰まった警察は、旧知の名探偵・鞐柊一郎(こはぜしゅういちろう)に相談し、心理試験が行われることになった……。
これはまだ科学的捜査がない遠い昔の事件……。
○警察署の中に作られた特別尋問室
警察関係者が椅子にずらりと座っている。(見学者は警察関係者となり、劇に参加)
その前には、容疑者二人が座っている。真ん中に、鞐柊一郎がマントを着て立っている。
誰かの吸った煙草の煙が流れる。軋む床に鞐の革靴の音……。
鞐「これから、心理試験を始めますが、これといって難しいものではありません。一九〇〇年初頭、スイスの心理学者カール・グスタフ・ユング博士が考案したもので、由緒あるテストです。
被験者は、例えば刺激語である『夢』と聞いて連想する言葉をおうむ返しに答えるのです。例えば『結婚』とか。
ポイントはあまり考えず反射的に答えること、それがルールです。それでも被験者は言い淀む時があります。その言葉に何か引っかかっているのかもしれません。心の奥に隠されたものが見えるかもしれません……『斧』と聞いたら反射的に『凶器』と答える。
ええ、そうです。今回の事件の凶器です。しかし、仮に不自然なトーンで答えたとしても、それは証拠にはなりません。ただ、その人が『斧』という言葉に過剰に反応しただけかもしれないですし、ただの防衛本能かもしれません。
ユング博士は、心の乱れがある言葉のまとまりをなしているもの、それを複合体、コンプレックスと名付けました。コンプレックスは無意識内に存在して、何らかの感情によって結ばれている心的内容の集まりであり、統合性を持つ自我の働きを乱すものです。ええ、これはどなたの中にも存在します。あなたにも、私の心の中にも…。
今回の刺激語にはいくつか仕掛けをご用意しました。皆様が、わざわざ私をお呼びいただき、何かしてみろとおっしゃいますので、こんなことを考えた次第で。
え? ああ、そうです。『D坂の殺人事件』で明智小五郎が贋作師に仕掛けたあれです。どうか二人の心の揺らぎを見逃さないように。それはとても小さなものです。それでは、始めます…。
あ、こちらが妻の亜希子さん。そしてこちらが愛人の瑠衣子さんです。二人はお互いが見えません。聞こえません。完全に防音が施された個室にいます……」
亜希子、瑠衣子、終始不安げで苛立った顔で鞐の後ろにすでに座っている。
鞐、心理試験を始める。
鞐「頭」
亜希子「手」
瑠衣子「頭痛」
鞐「緑」
亜希子「青」
瑠衣子「竹林」
鞐「水」
亜希子「冷たい」
瑠衣子「高瀬川」
鞐「歌う」
亜希子「賛美歌」
瑠衣子「子守唄」
鞐「死」
亜希子「…悲しい」
瑠衣子「お通夜…」
鞐「長い」
亜希子「旅」
瑠衣子「人生」
鞐「…斧」
亜希子「…重い」
瑠衣子「…木こり」
鞐「支払う」
亜希子「現金」
瑠衣子「借金…」
鞐「眠る」
亜希子「夢」
瑠衣子「薬」
鞐「親切な」
亜希子「おばさん」
瑠衣子「老人」
鞐「血」
亜希子「流れる(淡々と)」
瑠衣子「生臭い(嫌悪感で)」
鞐「尋ねる」
亜希子「人」
瑠衣子「…道」
鞐「赤い」
亜希子「…斧」
瑠衣子「…血」
鞐、薄く笑う。刺激語を続ける。
鞐「冷たい」
二人「水」
亜希子「小人」
瑠衣子「ピエロ」
亜希子「父」
瑠衣子「兄」
亜希子「ない!」
瑠衣子「ある」
鞐「…夜」
亜希子「縛られる(痛そうに)」
瑠衣子「蝋燭(熱そうに)」
鞐「怒り」
亜希子「犯人」
瑠衣子「裏切り」
鞐「犯す」
二人「罪」
亜希子「祈祷所(恐ろしい場所として)」
瑠衣子「鈴の音」
亜希子「嫌い」
瑠衣子「羨ましい」
鞐、皆に語りかけるように、
鞐「人間の自己、意識の中心には自我があり、その意識下の層には個人的無意識があります、そしてその下には普遍的無意識の層があるのです。警察は常に意識体系の中心的存在、自我の層を捜査なさる。いえ、それでいいのです。法律が裁くのは自我がつながっている実際にあるこの世界……でも、それだけではつまらないじゃないですか。個人的無意識の層……あるいは普遍的無意識の層に働きかけてこそ、事件の本質、人間の本質が見えてくるのかもしれませんよ」
亜希子「人」
瑠衣子「人」
亜希子「…いらない」
瑠衣子「いらないっ!」
鞐「私の刺激語は『刺す』と『同情』でした……。『死ぬ』」
亜希子「大切な人…」
瑠衣子「大切な人…」
鞐「祈る」
亜希子「神」
瑠衣子「神様!(信心深い人として)」
鞐「結婚」
亜希子「嘘!」
瑠衣子「生活」
鞐「嘘」
亜希子「結婚」
瑠衣子「…結婚」
鞐「コウノトリ」
亜希子「…赤ちゃん」
瑠衣子「……赤ちゃん…」
鞐「間違い」
二人「…犯す」
鞐「選ぶ」
亜希子「人生」
瑠衣子「…人生」
峠「不正な」
二人「取引!」
鞐「綺麗な」
二人「女!」
鞐「妻」
二人「私!(亜希子は語気が荒い)」
鞐「侮辱」
二人「取り調べ!」
鞐「私は100の刺激語を二人に聞き、その反応速度を記録し、それを二回繰り返しました。事件に関係のある刺激語は26、二人の答えが一致したのは12、さらに事件に関わりのあると思われる刺激語の一致は5つあります。いえいえ、だから最初に申し上げた通り、証拠じゃないんです。ただ…面白いことに無意識内のコンプレックスが強くなっていくと、自我の存在を脅かすようになります……」
亜希子「…ぐうう…(豹変する)なんであいつをさっさと殺さないの? ほら! ほらっ!
今すぐ叩き殺してきなさいよっ!」
瑠衣子「なんであの人が殺されなくちゃいけないの! …返せぇぇぇ! 今すぐ生き返らしてよ!」
亜希子「痛ぁぁい…っ! ああ、それじゃあ壊れてしまいますぅっ…ああ、ひどい…(亀甲縛りされているのが脳裏に浮かび全身に荒縄の食い込みを感じている)ううう、私は悪くなーい! 私が望んだんじゃない。汚いのはあいつだ! はん、あんな男、殺されて当然なんだぁっ!」
瑠衣子「汚い奴が結局全てを手にする! 世の中ってそんなものじゃない! ああ、やってられないねえっ! …熱ぃっ!(急にM女的に)ああ、もうこれくらいで堪忍してくださ…い…お願いします! お願いします!」
二人が豹変し始めた。それを興味深いものを見るように凝視している鞐。
鞐「私の見立てでは…どうやらお二人は『解離性障害』ではないかと……つまり、『二重人格』ですよ。被害者の性癖が関係しているのかもしれません。そして、お互いが抑制していた自我を相手に『投影』しています……」
すでに暴れている二人。人格がそれぞれの心の中で交錯している。
亜希子「わたしじゃない、私は商売女じゃない。お飾りじゃないっ! あんたの女なんだって!」
瑠衣子「はん? 浮気が甲斐性? イケ図々しいねー! ふざけたこと言ってんじゃないわよ!」
鞐「…この場合『逆投影』と言いますが、相手の中に自分の無意識内のコンプレックス…言わば、『自分の中にいる他人』を見ている。そう、妻の中に愛人の人格が存在し、愛人の中にも妻がいるのです。それが捜査をより混乱させているわけで…」
瑠衣子「あんたのせいでどれだけ泣いてきたかわかる?(憎しみと悲しみの入り混じり)悔しいか? ふふ…怖いだろう? 血の涙で溺れてしまえ! 丹色(にいろ)の風波(かざなみ)に呑まれてしまえ!」
亜希子「んぎゃーっっ!!! 手が赤い! 手が赤いっ! 全部…わたし全部赤いぃっ!! ええ? なっ…に…これ? うぎゃーっっ!! 起きてっ! 起きてっ!! 起きてぇぇっ!!(眼下に首に斧が突き刺さったままの男がいるのが見えてしまう)」
暴れている二人。監視していた刑務官が取り押さえようとする。それでも暴れている。
亜希子「あの人を…返してよぉ! 返せーーっ!! …きっと、あいつが殺したんだ…あいつが殺したんだぁぁっ!」
瑠衣子「ぎゃはははっ! お前は薄汚い泥棒猫さ! 人殺しなんだよっ!」
亜希子「うぎゃーっ!!」
暴れる二人。二人の女の目が一瞬交差する。
二人『もっと縛ってっ!!』(声が重なる)
女の狂気、その予想以上の発露に鞐の心も揺れるように、
鞐「…さて、今やどちらが妻で、愛人なのでしょう…そしてどちらが殺したのでしょう。あるいは二人がそれぞれ内なる夫を殺したのでしょうか。いやいや…加害者は一人。いずれにしましても、そう滅多なことで、人の心などわかるはずがない…そのような気が致します」
鞐は、静かに退場する。
女二人は自分の中のどちらの人格でいるのか、放心している。
終わり
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