舞台「緑園にて祈るその子が獣」の雑多な感想
私のマイルールとして、複数の知り合い(というかフォロワー)が「やられた」舞台は見に行くことを検討するというルールがあります。
まあぶっちゃけ、舞台に限らずアニメとかゲームとか小説とか、なんでもこんな感じなんですけど。フォロワーすごいので、基本はずれがありません。
そうして見に行った舞台の一つがこの作品です。ちなみに、このルールでチケが生えた舞台全部富田麻帆さんが出ていました。
「祈る家」
教団とか活動そのものについては、あまり語りたくはありません。
上のふせったーに全部書いてあるのですが、私に語る資格があるかわからないし、語れば語るほど彼に対し失礼になると思うのです。
宗教というのは複雑な問題だと思います。
私自身は特にこれと言った信仰対象は無く、結婚式と言うと白亜のチャペルが、葬式と言うと経を読む坊主が、初詣は近所の神社に、という典型的日本人マインドです。
しかし無神論者かと言うとそうでもなく、宗教は必要なものだというマインドです。
人は簡単に押しつぶされるものだと思います。
時には神に縋ったり、懺悔室で罪を告白したり、そういったことも必要だと思います。
宗教がもたらす「救済」と言うと、輪廻転生だったり死後の楽園だったりがイメージされがちですが、むしろこういう救済の方が身近で、多いのではないでしょうか。
カルトとそうでない宗教の境界線はかなりあいまいです。
私の親戚に、九州で住職をしている人がいます。
親戚に寺がある、と言う事です。
中学生のころ、宮崎への帰省のついででそこに行ったとき、
突然母親と父親、その親戚の坊主おじさんに袈裟を着せられ写真を撮られたことがありました。
突然袈裟を着せてきて、それを喜んで写真を撮る両親が理解できず、相当不気味なものに見えた覚えがあります。
でも、それはカルトではないでしょう。
寺自体はどこにでもある浄土真宗の寺ですし、おじさんは息子娘のためにクリスマスパーティーもするし、僧侶になることを強要したりもしてませんでした。
こうして書いていると、本当にカルトとそうでないものの境界線がわからなくなってきました。
最初は、無関係の他人に迷惑をかけていたらカルト、と思っていました。
カルトの象徴たるオウムやイスラム過激派のように大量殺人をしていたらカルト、というのはわかりやすいです。
でも、迷惑の物差しだってわかりません。
献金で人を破産に追い込んだらカルト?信者に望まない結婚を強制したらカルト?
極端な話、隣の神社のお祭りが迷惑だ、と思っている人もいるでしょう。
宗教と適切な距離感を保てたらいいのですが、マルコやキリコのようにそれが不可能な人もいると考えると恐ろしいです。
「たまたまそうでなかった、ありえたかもしれない人生」だから感じる不気味さで、恐怖なのかもしれません。
選択肢
人生にはところどころにクリティカルな選択肢と言うのがちりばめられているのかもしません。
この舞台は、マルコという人間の人生の、そうした選択肢の部分を的確に切り取った(という体のモキュメンタリー)舞台なのだと感じました。
「もし、あの時ヒデの椅子を引かなかったら?」から始まって、最後の最後に、「もし、あの時ビルから飛び降りていたら?」まで、場面のほぼ全てが選択肢です。
恐ろしいことは、そうした選択肢でもしifの側を進んでいたとしても、事態が好転したりよりよい結末につながる、という想像が全くできない事です。
ヒデの椅子を引かなかったら?
ヒデはガキ大将のままで、マルコが引きこもりになっていたかもしれません。(あの両親のもとでなれるかはさておき)
レイの好意を無碍にしていたら?
レイとの出会い、ノコの誕生はマルコの人生に少しの光をもたらしますが、その後の中村のブラック企業への転職やヒデの復讐の原因とも言えます。
そもそも、マルコはノコが産まれる事自体にかなり葛藤と後悔をしています。
でも、レイとの出会いが無かったら?
あのまま、真っ黒な目で一生を過ごしていたかもしれません。
風俗を延長しなかったら?
短くない時間を共に過ごしたであろう10歳の少女を、自らの手で殺す覚悟ができているヒデとハルトと、あの自暴自棄の状態のマルコが出くわしたらどうなっていたのでしょう。
結果論ですが、ノコやレイにとってもっと悪い結末になっていたかもしれません。
バイト中に流れていたラジオで、「あなたが選んだ人生の選択肢は、それがどうであれ全部良い方向の物」とパーソナリティが言っていました。
極論、そんなこと誰にもわからないわけですが、描かれていた人生の選択肢はその全てがどちらもグレーで塗りつぶされている、そんな印象を受けました。
この舞台は、グッドエンドでもバッドエンドでもないな、という印象を受けました。
でも、人生の終わりにグッドもバッドも無いし、何より、主要人物の中で明確に人生の終わり、すなわち死が明示されているのはキリコだけです。
登場人物たちの人生が終わっていない以上、そこにグッドもバッドも無いのだろうな、と思いました。
これも、見方を変えたらヒデとハルトの人生の選択肢だったのかもしれません。
キリコは両親に本気で絶縁されていましたし、ヒデが通報しなかった結果、たまたま、本当にたまたま、手掛かりの無い行旅死亡人として処理されてしまったのでしょう。
マルコの運が良かったか悪かったのか、という話はさておき、レイを筆頭に糸がつながっている人間が多数いるノコを殺した罪からは、逃れられないでしょう。
自分の最も憎んでいる人間と同じところまで堕ちるのが幸せなのか、舞台でたどった結末が幸せなのか、これもわかりません。
唯一良い悪いどころか想像もできないのは、あの時マルコがキリコを海に突き落とさなかったらどうなるか、です。
レイとノコ
レイは、まほねぇこと富田麻帆さんが演じていた役。
全体に重めだった舞台の中で、多分笑顔が一番多い役なのではないでしょうか。
レイは、かなり異質な役に写りました。
マルコと深くかかわる役の中で唯一、マルコの過去と一切関係がない。
家族は生きるために集まった他人同士、と言うのをどこかで見たことがあります。
宗教に当てはめることもできる言葉ですが、言葉通り家族に当てはめてみると、レイという人物の役の異質さがわかると思います。
レイが妊娠したとき、マルコは自分の過去を思いこの子は不幸になる、と言いますが、レイはそうではないと言います。
当たり前です。マルコとレイはたどってきた人生も見てきた感じてきた接してきたものも違うのですから。マルコとレイは他人なのです。
レイは第一印象こそさすらいのポエマーというか、あまり責任感とかがあるようにも思えません。夜の繁華街をブラブラしてはポエムを詠み、月が綺麗ですねをI love youと解釈し付きまとい・・・というかノコも言ってしまえばデキ婚にも見えますし・・・
でも、彼女はノコをちゃんと産み、共働きで家族を支え育てています。
そして、「人の物を盗ってはいけない」という当たり前のことを注意した。
最終盤、死ねなかったマルコに優しくおかえり、と声をかけているレイは本当に良い人だと思いました。陳腐な言葉しか出てきません。
ちなみに、上記の家族は集った他人という言葉には続きがあって、「そこに産まれた子供も、新たな他人」と続きます。
これに関しては………解釈が分かれるところです。
「ノコはキリコの生まれ変わり」という考察もあり、スペースでは脚本演出の中島さんもそう見えるように作った部分がある、とおっしゃっています。
私は、ノコがキリコの生まれ変わりだとは思いません。
もし脚本とかにそう書いてあったらコイツわかってねえなって話なんですが、スペースで断言したわけではない以上、そうなのかなぁと思い続けています。
ノコはレイでも、マルコでもありません。
血が繋がっているのは確かですが、マルコは「祈る家」と縁を切っているし、確かに人は殺しましたしイジメもしましたが、それはマルコがやった行為でありノコがやったことではありません。
ノコがマルコの十字架を背負うのは違うと私は思いました。
彼女はたまたまマルコとレイの間に生まれただけの少女なのです。
もしかしたらミドリの双子の妹だったかもしれないし、中村や鮫島先輩の子だったかもしれない。また別の誰かだったかもしれない。
ヒデも、マルコを呪うとは言っていますが「末代まで呪う」とは言っていません。
私個人の意見ですが、誰かが犯した罪をその誰かじゃない人が償うというのは違うと思います。
もちろん、その誰かに命令した誰か、とかそういうのは別ですが、罪を犯した本人が生きているのに、家族だったり、友人だったり、法的な責任が無い誰かが謝罪したり償ったり、というのは、八つ当たりにすら見えます。
犯罪者の家族や子孫、という人の事も描いているのだと思います。
私は幸いそういう立場ではないので、宗教の件と同じで深く語れないし、語る資格もないと思います。
なので上のは、部外者の一意見でしかないです。
ただ、この解釈だと「ヒデとハルトがノコを殺そうとしたこと」の辻褄が合わなくなってしまいます。
ヒデたちは、単にマルコの幸せの象徴だから、ということでノコを殺そうとしたのでしょうか?
ありうる話ですが、だとしたらわざわざ島に行かずともマルコの不在時に家に押し入って、レイもノコも惨殺すれば良いだけの話です。
キリコの仇討ち?
レイという他人の存在や、ノコの死が彼女にもたらす空虚を知っているはずのヒデがそうするでしょうか。
キリコの仇をとりたければ、殺人を目撃したとして然るべき所に通報すれば良いのです。
期間が経っているので成功するかはわからないですが、行旅死亡人の情報や教団側の資料と一致すれば、マルコを刑務所送りにできたかもしれません。
とはいえ、ここは意図的にぼかされているような印象も受けます。
ハルトが何故ヒデの復讐に手を貸したのか、という質問に、中島さんが曖昧な答を返していた(ように感じた)のもあって、観客に解釈を委ねているのかもしれません。
演出の話とか
パンフレットには、この舞台はきっと喜劇です、と書かれています。
中島さんも、スペースで喜劇のつもりで作ったと言っています。
劇場から出た後こんな気分になる喜劇があるか!という話はいいとして、ところどころに笑いどころ、コメディリリーフが確かに散りばめられていました。
多分、それが無かったらもう完全なる悲劇となっていたでしょうね。
一応、私の脳内ではこの舞台は悲劇にカテゴライズされています。
「アキバ冥途戦争」とか「星今宵」とかもわりと悲劇に入ってるので、劇中でどれほど笑えたかとか結末がどうだとかはあんま関係無いっぽいです。
なんで?って言われると困る。
特にすごいと思った演出は音響面でした。
他の方も言っていましたが、バックに入る環境音だったりがしっかりと作りこまれている。
特に、鮫島先輩のバイクに乗るシーンなんかは、バイクがある程度遠くに行ってそこでコールを切り、戻ってくるというのがしっかりと作られている。
それ故に、観客の場面の想像がやりやすくなり没入感が上がっているのかもしれません。
背景が無いのも大きいかも。
こういう動画ホント好きです。
観客から見えなくなった瞬間すぐおんぶをやめて裏をダッシュ。
上手側に回ると、麻帆さんが慣れた手つきで青色を乗せていく。
二回目の後は、中村役(格好的には、既にキリコを詰める変態信者の役になってますね)の久下さんがさらっと青を落とし、その間に「もんじゃ」を用意する。
私が舞台を見るきっかけ、原点になった作品が「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」なんですけど、その作品の一貫したテーマの一つに「舞台は一人では作れない、演者と裏方が協力し合い作り上げる芸術」という物があります。
こうした裏側はなかなか見れない物ですが、こうも阿吽の呼吸とギリギリのやりとりで作られているのかと見せつけられると感慨深いものがあります。
おそらく、裏で何かがトラブった時用に、表に出てる役者が時間稼ぎをする段取りなんかもあったのでしょう。
それもそれで気になりますが、何事もなく進むのが一番です。やっぱり。
その他雑多な一言感想
鮫島先輩、登場人物の中で何気に一番好きです。
バイクが風だ光だどうこうはさておき、とても憎めない、かわいそうな人でした。
パワハラで発狂した上に、夜逃げで職も失った彼。小さい子供もいる中、彼はどうなってしまうのでしょう。
個人的には、見た目がアメリカン乗りというかバイカーギャングっぽいのに絞りハンの族車に乗ってるとこがじわってました。
昔のバイクを直している、と言いつつ、本当は族系よりもバイカー系が好きだったりして。
口真似も重低音系の音でそれっぽいですし。
CBXホライゾンとかエリミネーターとか乗ってたのかな。
パンフで見てたキャストさんの経歴に、けっこう見たいとか見たとかの舞台があったのも驚いてます。
デリヘル、3列シートのステーションワゴン乗りがちだよなーみたいな無駄な思考もしてました。
〆
人の人生を描いた舞台が好きです。
これは、前に上野でス中等部マチネ後にふらっと入って見た舞台、「わが闇」を見た時に思った考えだったのですが、これで確信に変わりました。
そして、現実の怖さを突きつけてくる生々しい舞台も好きかもしれません。
よく、「下手なホラーより現実の方が怖い」と言います。
まあ大体、ホラー無理な人が強がって言う言葉です。私もよく言います。ホラー苦手なので。
で、どういう現実?と聞かれると大体、核戦争だとか地球温暖化だとかそういう答えが返ります。
もちろん、そういうのも怖いですが、この舞台では「本当に怖い『現実』ってじゃあなんだよ」みたいな事を観客に突きつけている気がします。
「一歩間違えたら」「もし少し運命が違っていたら」登場人物のような人生を歩んでいたかもしれません。それが良いか悪いかはさておき。
この物語の登場人物が、誰でもないし誰でもある、と言うのが一番怖いです。
フィクションだということはわかっていても、そうした人がどこかに必ずいる。
それはたまたま自分じゃなかっただけ。
私を含め、身近な人、あるいは自分に、誰かを重ね合わせたりして見てしまう感想が多かったのも、そうしたことを象徴していると思います。
とにかく、恐ろしい舞台でした。
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