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元SEが≪漆器の作り手≫になる(2)

前回の続き

「ゲームプログラムは数字の羅列でできている。」
これは、まあ、間違いではありません。
コンピュータの世界は、ザックリいうと電気信号のONかOFFか、1か0かの2つの状態しかありませんので。
しかし、適当に数字を並べただけではもちろん100%動きません。
少年の頃の私は実に楽観的に考えていたようです(苦笑)。

今回は、ゲームを作ってみようと思った少年の頃の私がどういった行動をしていったのかについて触れていきたいと思います。

※専門用語も登場しますが、飽きられないよう気を付けて、かつ、時々漆器の話題にも触れつつ書き綴っていきたいと思います。
長くなりますがお付き合いください。

だけどうちにはパソコンがない…

ゲームを作るためにはまず「プログラミング言語」を勉強する必要があると考えました。今はもう小学校でもプログラミングの授業があるくらいです。時代は変わりましたね。
でも、昔は独学で覚えるしかなかったのです。

私が最初に触れたプログラミング言語は「BASIC(ベーシック)」というものでした。

「BASIC」とは、
beginners' all-purpose symbolic instruction code
の略語で、初心者向け汎用記号命令コードのことです。(wikiより)

これは本当に基礎の基礎言語です。これをマスターしたからといってすぐさまインベーダーのようなゲームを作られるようになるわけではありません。
それでも、取っ掛かりとしては初心者向けの良い言語だったと思います。
※JAVA(ジャバ)とか、C++(シープラプラ)なんてオブジェクト指向開発言語が出てくるのはまだまだ先の話です。このときはありませんでした、多分。

当時、NHK教育テレビ(現在のEテレ)でBASICプログラムについての番組があり、私はまずこの放送を見て勉強しました。
番組では、解説者がBASICのプログラムをパソコンに入力して実行させた結果を放送していました。
でも、それを見ているだけではなかなか身につくものではありません。
自分で直接キーボードを叩いて(=操作して)体で覚える、というのが理想なのですが、当時の私はパソコンなんて持っていませんでした。
なんせ元々裕福な家庭ではありません。パソコンを買うほどのお小遣いなど貰っていませんし、当然、親も簡単に買い与えてくれたりはしませんでした。

漆器って稼げる?

ちょっと話が逸れます。
私は小学生の頃、お小遣いは一円ももらっていませんでした。お正月にもらえるお年玉で1年間やりくりするという年俸制でした。他のクラスメイトと話をしていると、なんてうちは貧乏なんだろうと嘆いていました。
それを聞いた父が激高し、手持ちのお金を数枚見せつけて「金はあるわ!」と大人気ないことを言ってきたことがありました。それにはちょっとビックリしましたっけ。
今思えば、必死で働いていた父が怒るのもまあ無理はない話なんですけどね…。

そもそも漆器づくりって稼げたのでしょうか?
よくよく考えてみると、私含む兄妹3人は全員なんやかんやで大学へ進学し、学費も出してもらいました。父は家を建てて借家も出ました。
祖父が早逝した直後は極貧状態だったそうなのでそこから立て直したのは並大抵のことではなかったはずです。

かつて、
サラリーマンは、決まった給料しかもらえないが、我々職人は作った分だけお金が入る
などといった話を父の仕事仲間から聞いたことがあります。

作れば作っただけ飛ぶように売れていく漆器。
「それで漆器団地ができたんだ」って話も聞きました。

我が家でも、塗り終わった漆器を袋詰めするために和紙の加工を家族総出でやっていた記憶がかすかにあります。
漆器づくりは当時そこそこいい収入があったのではないでしょうか。
今の時代しか知らない私には想像もできませんけど。

時代は変わって…。
今のご時世、漆器づくりを生業にしていくことはどうなのでしょうか?
現在の悩みどころの一つなのですが、これについてはまた別の機会に触れていきたいと思っています。

閑話休題

さて、話を戻します。
パソコン持っていない私。じゃあ、どうしたか?
デパートの家電売り場に陳列されていたパソコン(PC-6001だったかな?)を使わせてもらっていたのです。
プログラムを書き写した紙を家から持参してデパート店頭のパソコンの前に立ち、ひたすらカタカタとキーボードを叩いて(=操作して)は実行させるということを繰り返していました。
デパートに何度も通ってはパソコンを占有していたのに何も注意してこなかった店員さんには今更ながらこの場を借りて御礼申し上げます(笑)。

それと、教材はテレビ番組だけではありません。パソコンは買えなかったけれど、雑誌を買ったりはしました。
当時1冊300円で売っていた「BASICマガジン」という月刊誌も大変勉強になりました。
「BASICマガジン」には一般の人が投稿して採用されたゲームプログラムが載っていて、そのプログラムをパソコンに正しく入力するとそのゲームを遊ぶことができました。色々な機種の作品が満遍なく掲載されていました。

色々な機種、と書きましたが、当時の各メーカーは独自のコンピュータを販売していて、メーカーそれぞれ独自のBASICを搭載していました。
同じBASIC言語といっても、基本的なところは一緒なのですが微妙に命令が違ったりしていて、NECで作ったプログラムは他社、富士通や東芝、シャープでは動かなかったり、同じメーカーでも機種が違うと互換性がなかったり…。
これは当時「方言」と呼ばれていました。
他のパソコンで同じ動作をさせるためには「移植」という作業が必要だったのです。
各社のパソコン共通で動かすためのOS(オーエス=オペレーティングシステム)である、Windows(ウインドウズ)やMS-DOS(エムエスドス)なんかが出てくるのはもうちょっと先の話です。

※そういえば、漆器づくりの用語も産地によって呼び方が違ったりしますよね。本当に困りますよね?(同意求)

話を戻します。
雑誌に掲載されている他人のゲームプログラムを入力し、それを実行させて遊ぶだけでも十分楽しかったりするのですが、そのプログラムを解析してゲームの作り方、ロジックを覚えたり、さらには自分なりに改良して動作を変えてみたりすることがとても勉強になります。
何事も言えますが、物事を覚える一番の近道は他人の真似をすることかも知れませんね。

自作できる喜び、褒められる喜び

高校生になった頃、ようやくコンピュータが買えるくらいに小遣いが貯まりました。
といってもデスクトップパソコンではなく、ポケットコンピュータ(ポケコン)です。いわゆるプログラム電卓です。電卓なので表示画面は1行しかありません。

「1行しか表示できない電卓でゲーム?」
と思われるかも知れません。

でも、昨今のような派手な演出をするものばかりが「ゲーム」ではありませんよ。
数当てゲーム」だって「ゲーム」の一種です。
例えば、コンピュータがランダムに決めた1から99までの数字を「HIGHかLOWか」のヒントを得ながら何回目で当てられるか?とか。

そんなのつまらない!と思いますか?
今の子供ならそう思うかも知れませんね。
でも、このころのプログラム電卓で作れるゲームってこんなもんでした。

そんな中、私はポケコンでRPGもどきのゲームを作ってました。
「ドルアーガの塔(ナムコ、現バンダイナムコ)」のパクリです。
1行しか表示できないのでもちろん上下には移動できませんが、左右に動いて敵と戦います。
昨今は3Dが主流(?)ですが、その当時、1Dのゲームを作っていたのです。そこそこな出来栄えだったと自負しておりますよ(笑)。

ハイスペックなグラフィックやサウンドを用いるばかりがゲームじゃない。アイディアでなんとかなる(持論)。

さて、限られた範囲ではあるものの、ついに自分の作ったプログラムを実行させられる環境が整った私。
ポケコンでゲームを自作し、学校に持って行ってクラスメイトにプレイしてもらったりしました。
そしてゲームの感想を聞いたり、時にはダメ出しされたり、でもそんなことが楽しくて嬉しくてしょうがなかったです。

今も自分で作った漆器を他人に見てもらって称賛されると嬉しいものですが、その喜びはこの頃から芽生えてきたのかも知れません。
(つづく)

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