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元SEが≪漆器の作り手≫になる(3)

ひとりでいるのが好き

他人と接しなければならない「営業職」は嫌いで、
一人で黙々とできる「技術職」に就きたい。

子供の頃からずっとそんなことを考えていました。
コンピュータに向かっていれば、人と関わらなくても良い
ゲームを作る仕事はそんな感じの職業なんだろうなぁと、漠然と考えていました。

これまで、
「クラスメイトに自作ゲームをプレイしてもらった」
「駄菓子屋まで遠征して一緒にゲームした」
などといったことを書いてきましたが、実は同級生の友達はほとんどいないんです。
人と話すのが元々苦手で引っ込み思案な私は、話し掛けられない限り自分から話すことはなく、学校ではひっそりと過ごす目立たない生徒でした。
母親からは「意志が弱い」と言われ、他人の顔色ばかり窺っていました。

「できることなら他人と関わらずに生きていたい…。」

そんなことを考えていた私。
果たしてこの先も他人とのコミュニケーションを取らずに生きていけるのでしょうか?(笑)。

今回は、こんな私が、就職に至るまでの過程について触れていきます。
※今回も長文になってしまいました。どうぞお付き合いの程よろしくお願いいたします。

進路を決めるときがきた

結論から言うと、私はゲーム作りの道は選ばずに普通の(?)大学へ進学し、そして一般の企業へ就職することになります。

そもそも「ゲーム作りの仕事をしたい」という希望は親にも先生にも言うことはできませんでした。

高校進学の際もそうだったのですが、当時は学力テストの成績がそこそこ良ければ進学校、そうでなければ工業高校や商業高校へ、みたいな暗黙のルール(?)があったように思います。
私の場合、なんとも中途半端な成績というか偏差値で、「とりあえず進学」というような流れになっちゃってました。

「ゲーム作りをしたい!」と本気で思っていたのなら、そういう流れに逆らおうとも「会津工業高校」か、「仙台電子専門学校」に進むとかそれ専門の勉強ができる進路を本来は選択すべきでした。
今だったら「ゲームクリエイタースクール」やコンピュータ専門大学の「会津大学」を目指すとかになるのでしょうか。

「とりあえず就職は大学行ってから考えるか」
私はあまり深く考えず、結論を先延ばしにしてしまいました。

家業、継ぐ?

進路に関してもう一つ。
「お父さんの仕事を継がないのか?」と言ってくるうるさい人(笑)もいました。
以前も触れましたがそもそも私は漆器に興味がなかったので、その選択肢は最初からありませんでした。
また、父にも「跡を継げ」と言われたことはこれまで一度としてありません。
父自身もやりたくて職人になったわけではないので無理強いはしなかったのでしょう。
(※跡継ぎ云々言う人は大抵「よその人」です。)

でも、
もし高卒ですぐ漆器業界に身を投じていたら今ごろ熟練した職人になっていたのでしょうか?
想像の域を出ませんが、若い時に始めていれば技術が身につくのも早かった可能性はあります。
何とも言えませんけどね…。

跡継ぎを強制しなかった父。
大学受験を前にして、一つだけ約束事を言い渡します。

現役一発で合格できなかったら就職」

なんと言ってもウチは貧困家庭。浪人させる金なんかありません
そして、私立大に払う受験料も学費もありません。
国公立大学専願の一発勝負です。
まあ、これについては私も最初から覚悟の上でした。

だから、必死に受験勉強した、というわけではないのですが(笑)、何とか無事現役合格することができました。

会津を離れて

地元福島県の国立大学といえば「福島大学」。
ですが、当時、福島大学は経済学部と教育学部しかなく、工学部を希望していた私は必然的に県外へ出ざるを得ませんでした。
私が移動した先は茨城県。
18年間過ごした地元の会津若松からここで一旦離れることとなります。

親元を離れて大学の近くに住むことになるのですが、一人暮らしではなく男女併設の4人部屋の寮に入り、同じ学生との共同生活をすることになります。理由はアパートより寮費が安いから。
人と話すことが苦手な私、果たして共同生活はうまくいくのでしょうか?

不安を胸に抱きながら入寮した私ですが、しかし、いざ集団生活という環境に身を置いてみると、意外となんとかなるもので、自分でもこの適応能力に正直ビックリです(笑)。

周りの学生たちは、私が内気な性格であることなど知らないので普通に気さくに話しかけてきました。
高校まで付いていた「あんまりしゃべらない奴」というレッテルもいつの間にか剥がれ落ちていました。
地元を離れたので、以前の自分を知る人は周りに誰もいないのです。
他人の顔色を窺う必要もありません。
言わば生まれ変われるチャンスでした。そして生まれ変わることができました。(本当か?)

大学では本当に多くの友人、知り合いができました。
地元の同級生達とは卒業後完全に疎遠になりましたが、大学進学後に知り合った人たちとは今でも繋がっています。

結論、
親元を離れることは大事!
可愛い子には旅をさせよ!
ですね!

大学で学んだこと

肝心な、大学で学んだことにも触れなければなりませんね。
工学部に入ったと言いましたが、プログラミングを学ぶ情報工学ではなく、機械や電気、システム制御を学ぶ精密工学に進みました。
本当は「情報」に行きたかったんですが、1次試験の結果が今ひとつで、高校担任の助言に従い、志望ランクを下げたのでした。

でも、
やりたい学問を捻じ曲げてまで大学に行く意味はあったのでしょうか?

ハッキリ言いましょう「無いです!」

今振り返ると何とも言えない感情が沸き起こりますね。
でも当時は、現役で大学卒業して社会に出ることを最優先に考えていたのです。

余談になりますが、
私の妹は取りたい資格のために短大から四大に編入するなどして積極的に動き回り、私なんかよりしっかり人生設計してました。
当時、親は「大学に5年もかかって…」とか言ってましたけど(笑)。


今現在、漆器職人の卵と呼ばれている若い世代の人たちも、美術系の学校でデザインの勉強をしていたり、芸術系の学校で漆の勉強をしていたり、と、仕事に生かせる学校を出ている人か多いようです。これがきっと本来あるべきスタイルなのでしょう…。

そして就職へ

とりあえず大学で「学士」の資格は取った私。
就職戦線に挑みます。

そういえば時代背景に触れていませんでしたね。
大学卒業を控えた4年次の1月に昭和が終わり平成が始まりました。
つまり、平成元年は私の社会人1年目の年なのです。(数えやすい!)
まだバブル期で、学生には就職に有利な売り手市場でした。

大学の研究室には教授宛てに有名企業からの求人がきていたりしたのですが、私はそれをあてにせず、自力で就職先を探しました。

そして、東京に本社がある、とある普通の(?)ソフトハウスに入社します。福島県内に支社がある会社で、「ゆくゆくはUターン?」なんてことも視野に入れた選択でした。

一応、某ゲームメーカーの就職説明会にも行ったんですよ。
でも、参加者がとても多く尻込みしてしまいました。またゲーム開発に携われなかった場合、子会社のイタリアントマトに回されるという噂もあって、そうなったら最悪だなぁ、と。それで辞退してしまいました。

さて、新卒で入社した会社。
大手企業の富士通や松下などから仕事を受注したり、社員を派遣に出したりしていた会社でしたが、辞めていく人も多かったです。

私は派遣に出されることはありませんでしたが、自社勤務よりも出向が多くて、1年も勤めていると仕事にやりがいを見いだせなくなってしまいました。

やっぱりゲーム作りに携わりたい…。

気がついたら私は会社を辞めていたのでした。
(つづく)

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