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寒気と高熱で気絶したあとのイタリアン味噌汁(小説『ザ・民間療法』020 インド編)


お迎えが来てる?

 オーロビルでは毎年4月ごろから急に暑くなる。日によっては夜でも室温が40度から下がらない。暑いだけではない。ここは南インドでも海岸に近いため、その分、湿度も高い。そのせいで寝苦しい夜が続くのである。

部屋には扇風機が置いてあるが、つけたところで熱風をかき回すだけで、全く涼しくはならない。しかもここではちょくちょく停電が起こるから、暑すぎて寝具の上になど寝ていられない。そんなときは、部屋の床が石畳になっているので、その上に直に裸で横たわる。そしてバケツに汲んできた水を、体に少しずつかけてやる。すると気化熱のしくみで若干涼しくなる。そのすきに少しだけ眠るのだ。

そんな暑さが続いたある日、朝からなんだか寒気がした。異常に体が寒い。室温の高さは相変わらずなのに、持っている服を全部着込んでもまだ寒い。ガタガタと震えが止まらないのである。何が起きたのか。高熱でも出ているのだろうが、もちろん体温計など持っていない。あったとしても計る気力すらない。

こういうときは、とにかく水分だけは十分にとらないと危険だ。そんなことを考えているうちに頭にモヤがかかってきた。だんだんと意識が遠のいていくのがわかる。その薄らいでいく意識のなかで、「このまま死ぬのかな」とぼんやり考えていた。

それから何時間たっただろうか。意識が戻った。見上げると、カーテンの向こうが明るい。これは、その日のままなのか、翌日なのかもわからない。起き上がろうとしたら、ふらついて立つこともできない。

這うようにして、いや実際にオオトカゲのようにズルリズルリと這っていって、ようやく体が半分だけ部屋の外まで出た。私の頭に容赦なく照りつける陽射しがまぶしい。そのまま転がって息を整えていると、異様な姿の私を見て、スイス人のユルグがかけ寄ってきた。

「高熱が出て死んでいた」と伝えると、あわてて水を持ってきてくれた。「今日は火曜か」と聞いたら、もう水曜になっていた。気を失ってからそのまま一昼夜も寝ていたのである。よく脱水で死ななかったものだ。自分の生命力には少し感心した。

ユルグは食べ物も勧めてくれたが、全く食欲がない。彼に肩を借りて、ベッドまで戻って横になる。するとユルグに聞いたのか、マルコの奥さんのエレーナまでが、何か持ってきてくれた。

「こんなとき、日本人なら味噌汁がいいでしょ」
そういって差し出されたのは、わざわざ自分で作ってきてくれたスープだった。ありがたい。せっかくの心遣いなので、がんばって少し口に入れてみた。

「はて?」彼女は確かにミソスープといったはずだ。だが味噌汁の味ではない。今私が口にしているこの液体はいったい何だろう。今まで一度も口にしたことのない味である。熱のせいで味覚までおかしくなったのか。うまいまずいの判断すらつかない。どっちにしても病体にはこの味噌汁は酷だった。

日本食といえば、前に友だち数人と連れ立って、カトマンズの日本料理屋に入ったことがある。席についてメニューを見ると、そこには「カツ丼、すき焼き、うどん」といった字が並んでいる。きっとネパール風味だろうが、懐かしさに胸を踊らせながら、それぞれが別の料理を注文した。

ところが出てきた皿を見ると、そこに乗っているのはネパール風どころか、どれも初めて見る料理ばかりだった。恐る恐る口に入れてみたが、見た目だけでなく味までも、どれがどれだかわからない。懐かしさなど微塵も感じられない味だった。

この得体の知れない日本料理は、あのころの海外の日本料理店では定番だった。そんな記憶が一瞬のうちに頭をよぎったが、エレーナの親切心だけは忘れまい。

数日たって、少しずつではあるが体調が回復してきた。するとあれほど寒かったのに、インドの暑さもしっかり復活してきた。寒いのもつらいが、この暑さはやっぱり耐えがたい。

それにしても、私を気絶させるほどのあの高熱の原因は何だったのか。エレーナの味噌汁同様、全く未知の体験だった。ただしこの体験を通して、人はそうかんたんには死なないものであることと、自然治癒力のありがたさを実感した。そうだ。今度エレーナに会ったらお礼をいって、あの味噌汁が何でできていたのかも聞いてみなくてはならない。(つづく)


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