自分の心に寄り添うこと
僕は
彩と約9年間
パートナーシップについて
向き合っていく中で
『認め合うことの難しさ』
『分かり合うことの困難さ』
をこれでもかというほど
痛いほど痛感してきた。
話し合えば
互いに感情論になり
非難し罵倒しあいの水掛け論で
互いが互いに
『認め合う』
『分かり合う』
ってどうしてこんなにも
難しいのだろうと
結婚当初は散々悩んで
散々喧嘩した。
あまりにも
分かり合えないフラストレーションに
互いの服を破りあって喧嘩したり
駅のホームで追い回して喧嘩したりw
自分の気持ちを
「分かってほしい」があまりに
あの手この手を使って
論理立てて説得しようとしたり
常識や知識を振りかざして
半ば脅迫じみた伝え方を試みたり
相手の気を引くように
相手が喜ぶポイントを小出しにしながら
相手の気持ちをこじ開けながら
そこに自分の気持ちをねじ込んでみたり...
まあ、本当に
良い悪いも含めて
あらゆる手段を用いて
相手に
「聞いてもらおう」
「理解してもらおう」
「分かってもらおう」
と散々小細工を使って
相手の変化を要求してきたけど
でも本当は
「相手が自分の話しを聞いてくれない」
んじゃなくて
それくらい
『自分の気持ちを無視し続けてきた自分』
がそこにはいて
「素直な気持ちを聞いてほしい」
と言えない
『自分の弱さへの自己否定』
があるだけだったんだよね。
本当は寝ていたいのに
学校に行かなければ、仕事に行かなければと
毎日毎日、自分にムチを打って行かせたり
本当は美味しいご飯を食べたいのに
お金がないからと節約して
安物の惣菜ですませていたり
本当は相談したいことがあるのに
そんな気持ちに素直になれず
強がって、自分を守って
大丈夫って言い張ってみたりして...
あげれば切りが無いほどの
たくさんの細かな「ガマン」をして
他人や常識や過去の習慣からくる
「頭の声を聞き続ける選択」して
自分の本当の『今の気持ち』を
無視しつづけた結果
『自分の気持ちなんて聞いてはもらえない』
と他でもない
「自分自身が自分に」憤っているんだ。
その
「自分に無視され続けた自分の気持ち」が
その
「やり場のない気持ちや
本心で生きられない
フラストレーションの蓄積」が
『誰かに私(僕)のことをわかって欲しい!』
『こんなに私(僕)は苦しんでることを知ってほしい!』
という衝動となって
自分の気持ちを相手に投影して
叫んでしまうだけなんだ...
だから本当は
どれだけ相手に
要求しても
変わって欲しいと改善を求めても
自分が
『自分自身の心の声に耳を傾ける』
と決めない限り
ムカつく相手が消えることもないし
嫌な相手が変わることもないし
自分がそのことに気がつくまで
エンドレスでそういう相手と
出会い続けてしまうようになっている...
これがいわゆる
「輪廻」や「カルマ」ってやつで
僕らはこのことに気づくまで
繰り返し繰り返し
泥沼の人間関係という名の
『愛のレッスン』
を受け続けることになっている。
だから
大事なことは
どんなに『弱い自分』が出てきたとしても
たとえその瞬間に相手に罵倒されたとしても
まずは
そんな自分を
ただただ
認め、愛し、感じてあげて
『自分だけは最後まで自分の味方だよ』
って寄り添い続ける覚悟を決めて
ただひたすらに一緒に感じてあげること。
そして
勇気を出して
そんな『弱い自分』をも
相手にさらけ出してあげること。
自らの心の声に耳を傾け
その繊細な心の叫び
『愛の叫び』を
一つひとつ叶えてあげるチャレンジを
してあげること。
すなわち
『自愛』
これが
神や天が与えてくれた
『愛のレッスンの第一科目』
なんだ。
最初は
「小さな寄り添い」からでも大丈夫。
いつも安い惣菜ばかり食べて
もっと良いもの食べたいな思っていたら
『自分の気持ちに見合うワンランク上の食事』
をさせてあげたり
時間がないからと最短距離で
駅までの道を歩いていたら
ときには心が赴くままに
普段は通らない道を歩いて
『新鮮な体験』を日々取り入れてあげたり。
もう少し「大きい寄り添い」だと
今やってる仕事がつまらないと感じるなら
もっとやりがいがある仕事に
挑戦させてあげたり
もっと心地よい場所に住みたい
と感じているなら
心が願う場所に引っ越しさせてあげたり。
とにかく自分の心が
『ワクワクすること』
『やってみたいこと』
『求めていること』
をお金や時間や条件を理由にせず
一つひとつ
『自分のために叶えてあげる』
こと。
お金や時間や条件よりも
『自分自身の願いを最優先』
に選択して行動してあげること。
そうやって
少しずつ少しずつ
「自分の気持ちを叶えてあげる」
という『自愛の習慣』が育まれた分だけ
自分の内側が
徐々に徐々に癒されて
自分にも相手にも
自然に優しく
接することができるようになるから。