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unconsciousの世界

カメラで何かを納めたいと思う時、一体何が私を突き動かすのかについて考えてみる。「感覚を映像に置き換える」と言っても、人それぞれやり方は違うだろうと思う。それ以前に、なぜ自分はこの瞬間を撮りたいと思うのかについて、実は今まであまり深く考えたことがない。

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面白いとか美しいとかこの瞬間を是非とも残したいと感じること以前に、その時の身体の状態や欲求、その日起こった出来事からくる「感情」があるのだろうか?

私自身が感情を実感する・・つまり怒ったり泣いたり喜んだり感情的になるためには、環境や人との関わり、物語や過去の記憶が絡んでくることが多い。

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でも実際、特に何も考えていない、意識していない時に心動かされてシャッターを切ることが殆どなので、そこに感情が必ず潜んでいるかと言われるとよく分からない。

「意識にのぼる前の感情」というものが確かに存在するのであれば、(フロイトで言う前意識のようなもの)それを自分で撮った映像から意識化することは可能なのだろうか?―と、そんな風に、映像のアーカイブを通して次にリサーチしてみたいことが固まってきた。

振り返ることで次の一歩が見えてくる。

これは当たり前のようでいて、実は難しい。「振り返る」「見つめ直す」という行為は、言葉で書くと簡単だが、何かが終わってひと段落し、次に舞台が控えている、というサイクルで仕事をしてきた身としては、殆どやってこなかったように思う。

舞台写真や記事を貼り付けてそれについてSNSで呟く、日記を書く。そんなことは山ほどやってきたが、それは「自分ではない誰か」に出来事を披露しているに過ぎない。いつからか、本番全ての映像を見て比較検証したり(VHSの時代は結構やってた)自分自身や作品についての分析をするのが億劫だったり恥ずかしかったりして、その時間を取ることが極端に少なくなっていってしまった。

今は、そもそもコロナの影響で舞台が出来ず、苦肉の策でアーカイブプロジェクトをやっている。殆ど自分のために。

「一体これをやって何の意味があるのだろうか?」と挫けそうになったこともあるが、積み重ねることで意味は見出されるのだと信じている。そして偶然にも、次のリサーチの構想と過去の作品が結びつき、12月にその一歩を踏み出したいと思う。

無意識の意識化。精神分析の領域に手を出したところで、専門家ではない私は太刀打ち出来ない。ただ、全く知識がなくても浅くても、ダンスという切り口でそこに挑戦するのは自由だよね、と自分に言い聞かせて頑張ります。


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