善行に倦むことなかれ
This loss hurts, but please never stop believing that fighting for what’s right is worth it. It is - it is worth it. (Hillary Clinton, 2016)
"STOP THE COUNT!"というツイートを見た瞬間、うんざりした。私は本当にうんざりした。こんなにも民主的ではなく傲慢な人間が、4年もの間、アメリカ合衆国大統領であったことを、ただの一度もアメリカ人ではない私が心底辟易するのだから、当の国民の心情は察して余りありすぎるように思った。そして日本語の情報はさらにうんざりするほど下等なフェイクに溢れていて、NHKは遅れた誤情報を流し続け、国会を見ればこちらはこちらで首相が覚束ない日本語により支離滅裂な虚言を続けているのだから、知性とは、とため息もない。男性医師が女性のリプロダクティヴヘルスライツを抑圧しフェミ系などとあざ笑い、企業は相変わらず主要な消費者層を一顧だにしない広告を打って批判されている。いつから世界はこうなったのだろう。私が気づかなかっただけでずっとこうだったのか。そういえば、ATSUGIラブタイツの炎上の際には「消費者の人権意識が向上しているからこそ燃えるのだ」と呟いているユーザーを見かけた。
2016年、ドナルド・トランプの勝利が明らかとなってヒラリー・クリントンが述べた敗北宣言を、また私は何ヶ月ぶりかに読んだ。ヒラリーを特別に好きなわけではないが、彼女の知性と勇気に満ちた敗北宣言は何度読んでも胸を打たれるし奮い立たされる。だからどうにも私が立ち行かなくなったときに私は彼女の敗北宣言を読むのだ、過去の日記のとおり。昨日は、2008年、ジョン・マケインの敗北宣言も読んだし、バラク・オバマのシカゴにおける勝利演説も読み返した。オバマのシカゴ演説は、当時も本を買い、しばらくの間はずっと読んでいた。全ての大統領が清廉かつ高潔で、誠実で、間違いなく有能であったかと問われるとそのようなことはないわけだけれども、少なくとも大統領選が決するその日だけは常に、勝者の弁も、敗者の弁も、等しく尊重されるべきものであったようには思う。ブッシュJr.とアル・ゴアも、ビル・クリントンとボブ・ドールも。そして私たちはそれを知性と呼んでいたのだと思う、言葉にすることはなくとも。
This loss hurts, but please never stop believing that fighting for what’s right is worth it. It is - it is worth it. And so we need - we need you to keep up these fights now and for the rest of your lives.
And - and to all the little girls who are watching this, never doubt that you are valuable and powerful and deserving of every chance and opportunity in the world to pursue and achieve your own dreams.
“Let us not grow weary in doing good, for in due season, we shall reap if we do not lose heart.”
高校の推薦入試のため校内で行われた模擬面接で、忘れられない一問がある。2001年9月11日にアメリカを襲った同時多発テロを契機として、アメリカがアフガニスタンに侵攻、さらにイラクへ戦争を仕掛けようとしていた時期で「あなたはイラク戦争をどう捉えますか」と訊かれた。当時の私は、中学生に出来うる限りの消極的支持を回答にした記憶がある──「戦争をせずに済むならその方がよい、けれどもしなければならないのなら、なるべく最小限の犠牲で済めばよいと思っている」。先生は「いい回答ですね」と褒めてくれたが、本当によい回答だったのかと何年経っても忸怩たる思いがあるし、もしも今同じことを問われたなら真っ向から「支持しない」と言うだろう。「なぜならそれはあらゆる亀裂と分断を生むだけであるから。テロに屈しないとは報復をすることではなく、私たちの知性に満ちた世界は決して暴力によって引き裂かれるものではないと示すことだ」と。
私がアメリカという国を思うとき、私の記憶はあの小さな教室で先生と交わした模擬面接へと帰る。本番の推薦入試では当たり障りのない問いだけが繰り返され、難しい時事問題は一つもなかった。だけれどもあの模擬面接には意味があったと思う。ただの一度もアメリカ人であったことはない私、それどころか一度もアメリカの土地を踏んだことがない私、ずっとブリティッシュイングリッシュを聴き続けた7年を超える英会話教室で最後の教師がテキサス出身だった、それくらいしかアメリカ人と言葉を交わしたことがない私が、それでもアメリカという国を思うとき、まず甦る記憶があの模擬面接であることにはずっと意味があるのだと思う。例えば大学でアメリカ文化史を履修していたこと以上に、ずっと。
ジョー・バイデンは、自らに投票しなかったアメリカ国民のためにも働くと言っているのを見たような気がする。つい昨日の出来事なのに情報があまりにも早く濁流に呑み込まれてゆくので発言を見つけられなかった。だがそんなことはもちろん言うまでもなく、良識ある大統領が就任するのならそのとおりだろう。大統領職とは(あるいは大統領職ではなくともリーダーシップを得るということは)権力と共に責任を負うのだ。我が儘に、傲慢に、過ぎて利己的に"STOP THE COUNT!"などと反民主的なことを叫ぶのではなく。対立や攻撃を煽るのではなく。毎日毎日、取り合うのも馬鹿馬鹿しい陰謀説やフェイクニュースを吹聴するのではなく。バイデンはずっと、先進的民主主義国家において当然のことを言っているだけだ。建設的議論より当然の地平から語られなければならないことを悔しく思う。この4年もの間にどれだけの知性が蹂躙されてきたのか、その反知性主義が私たちの日常にどれだけ根深く蔓延ったのか、そしてそれらがどれほどの速度で日々刻々と私の足許を崩しているのかと、考えないではいられない。
いじめの言説で「私も人を傷つける。傷つけられるばかりではないことを忘れないようにしたい」と語る人がいる。この言い方を見つけるとき、あなたが立たねばならないのは「今、傷つけられている人間」の側だと私はいつも憤りを覚える。中立を気取り耳触りよく聞こえるけれども、この言い方が視座しているのは加害者の側だ。誰もが過ち、人を傷つける可能性がある、だから許せと言っているのだ。そうではないのだ。私たちは何かを踏んでいる自分の足を慮るのではなく、私たちに、誰かに踏まれている他者の足に目を向けなければならない。過ちに気づいたのならば、足を退けなければ(退けさせなければ)ならないのだ。過ちを悔いながら私は今傷ついている側のために立ちたいと思う。「善行に倦むことなかれ、失望せずにいれば時が来て、刈り取るようになるのだから」。
So my friends, let us have faith in each other, let us not grow weary, let us not lose heart, for there are more seasons to come. And there is more work to do.