よく三が日に三社周るとかいう話がある。
体調不良で、1日1社というイメージだったのだけど、
元日の午前中に近所の神社へ行って
そして、その日の4時過ぎに石川県の能登半島で地震の一報が出たのですが、向こうはここ数年地震が多いんだよな。とは思っていた。のだが
その1時間後には、呆然としてしまった。震度7。なにそれ。
母の実家とはわりと早く連絡が取れて。母の実家には、祖母が亡くなってから行かなくなってしまった。田舎だと、実家は事実上長男のものという感じになり、更に言ってしまうと、祖母が他界したことで、石川県に行きづらい感じになってしまった。なんていうか、お嫁さんが強い感じで、少しずつ少しずつ疎遠になっていったという部分はあった。能登半島自体が自然が豊かではあるものの、経済基盤としては厳しい部分があり、地域全体が経済面で豊かとは言いづらく、そういう背景があり、祖母が生きていた頃のような『子どもと孫が外にいるから』というような繋がりは絶たれてしまったと言っても過言ではないと思う。
昔、だいたい江戸時代くらい前だと思われるが『お年玉』は『丸餅』だった。というような話があった。それは世界的に見ると正解のような気がする。世界的に結婚式やお葬式や誕生日や新年やそのような行事において
日本だけが現金取引が発生する。
実は世界ではたいてい物品のリクエストがあり、そのリストアップされたものを買える人が買える物をプレゼントする。というのが一般的らしい。
だから、子どもに『お年玉』という『現金』を渡すというのが、異常に見えるらしい。そこで海外では『物品(本人のリクエストのもの)』ということらしい。お金さえ出てこないものの、ちゃんと欲しいものはあげる!ということだ。
石川県の能登半島の祖母がいた頃は毎年お正月用の餅が年末に郵送されていた。子どもだったので、誇張して覚えているかもしれないが、大きなダンボール箱に
丸餅
角餅
豆餅
草餅
という感じで、数種類の餅がたくさん届けられていて、クリスマスみたいで嬉しかったのだが、祖母が他界すると、石川県から送られて来る餅はだんだんと少なくなり、箱もだんだんと小さくなり、最後は書かないが、相当小さな箱に餅が入っていたのだが、その小さな箱が事実上のおしまい。という意味だったのだと思う。その後、石川県の母の実家はお嫁さんの意見が強くなっていったようで、ほとんど付き合いがない状態までいってしまった時期があった。田舎では、夫が強いか嫁さんが強いかしかなく、夫婦平等というパターンはレアケースのように思う。そういうので関東圏にいる母の兄弟は『実家は嫁さんのものになった』という空気感はあった。悪口とかではなく、地域の産業が弱いと蓄えが必要で、それこそ『お米が取れなかったら』という不安を考えると理解できると思う。歩いて5分以内にコンビニがあって、それが24時間営業している。という私が住んでいる世界が異常なんだ。そこに住んでいると職業選択の自由とはほぼ遠く、よそ者が持ってくる話はたいていロクでもないものだ。実際もそうだと思う。ただ、地域社会として支え合って生きていかないといけない。というようなルールはあるので、頭になるか、それに従うか、しかないと私は外野としては思っていて。たとえば何かになりたいとする。絶対に制限期間はあって。都会のように次々と何かを追い求めることは許さないのだ。
母の実家が被災から逃れたようだったのは、嫁さんの天下でリフォームなのか、建て替えなのかは鳳珠郡に行ってないので謎なのだが、相当実家をいじったことがたまたま運良く働いたのだと思う。
雪国なので。雪国でも東北とか北海道とかとはたぶんまた違うようで。雪は降るのだけど
あんまり積もらないらしい。
海風はあるのだけど、何故か積もらないらしい。
だから、玄関は雪国仕様で広くて
『だいたい玄関開けたら、また玄関』みたいな造りの家だといえばわかるだろうか。外から二重に囲っていれば、だいたい寒くない感じの造りの家が多く、中を中心に囲ってある場合が多い。それは1階のみで、2階は風通しがいいような感じの家が多かったような記憶なのだ。
よく断捨離とかいうが、少なくとも母の実家は屋号なので本家ではないのだと思うのだけど、代々のものがそのまま置いてあり、それを使うか使わないかというのは長男の家庭の意志によるという感じなので
当然どの家も物が増えてしまう感じなのだと思う。
母が実家に暮らしていた10代半ばまでは、どうやら御膳を使っていたらしい。けっこうこの事実を聞いて「犬神家か?」と思ったのだが、近くに輪島市があることを考えると、代々御膳を受け継いできたのかもしれない。鳳珠郡は統廃合を繰り返していて、おそらくはそういう意味でも交通の複雑さが発生したのかもしれない。そういう背景があり、廃線とかがあったとしても土地が関係することは喧嘩の元になりえる話ではあるので、地域社会が経済的に難しいと
基本一人勝ちというのは許さないだろうと思う。
みんなで豊かになるか
みんなで厳しい世界にいるか
それは他人事ではなく、日本社会そのものが同じ世界にいる話なのだ。
体調不良だ。原因はわかったのだが、自分が大気汚染というかたちで毒を盛られたという現実がウソみたいで。たまたま理系の人と仲良くさせていただいていたので
「栄誉補給さえしていれば回復するだろう」という話で。
。。。いや、たぶん、見た目よりも体調悪いよ。。。みたいな感じなんだけど、「そうですね」くらいにしておいて、ずっと
ポカリスエットと
リポビタンDの
お世話になっております。。。
毒って。。。という感じで。なんとか真理教みたいな話じゃないんだから。。。もう私の中で『アウシュビッツ』とかテキトーにあだ名ついてるんだけど、その『アウシュビッツ』が入ってから、ウソみたいなんだけど
そこの道、めっちゃ事故ってるんですけど。。。みたいになってしまって。。。だから、なるべくそこは通らないようにしているのだけど
銀行があるんだ。。。それで銀行に行く時は逃げられないんだよ。。。
元日に近くの地元神社に行って、その日の夕方に震災情報でパニックになったのだけど
2日にふらふらになりながら、神田明神へ。そこで神殿参拝なんだけど、神殿参拝って
頭が真っ白になってしまうんだよね。
完全に無欲状態になってしまう。
自分の欲さえも祓われてしまう。マジで。
欲がないと生きて行けないはずなのに
ゼロになってしまう。
『お金欲しい』という気持ち自体がなくなってしまう。
『彼氏欲しい』という気持ち自体がなくなってしまう。
『成功したい』という気持ち自体がなくなってしまう。
変なことではあるのだけど、外というか賽銭箱に小銭をチャリーンと投げるエリアで参拝するじゃないですか。欲ありありなんです。
ところが神殿参拝で聖域エリアに入るじゃないですか。ほんとうに自分の欲を忘れてしまうので、事前に書くのだと思います。そういう意味では祓われてしまうのだと、個人的思っています。
ただ、それもなかなか危険で。欲がないと、ごはんとかも食べられない状態まで行ってしまうので、そこそこ人間としての意地汚さは生きているためには必要があり、無欲だけだと人生を放棄してしまう場合もあるんですよ。
だから、自分をリセットするのには神殿参拝は効果はある。しかし、人間である以上、欲がなくなることは危険行為でもある。という矛盾は
わかっていた方がいいのかもしれない。
たぶん、これが個人的に人の『光と影』なんじゃないか?と思ってる。矛盾している存在そのものが
実は人間という存在。
thank you!