ケツメに学ぶ、ワクワクメッセージの作り方
説教メッセージはつまらない?
自分の説教を自分で聞いたことがありますか?
自分で聞いてて、自分の説教は面白いと思いますか?
日本の教会はだいたいメッセージ(説教)の時間が平均45分ぐらい。子どもクラスであれば15分ぐらい。
語る側ばっかりやってると忘れがちになるけど、ただ座って人の話を聞くだけの45分って、結構辛い。
学校の授業も一授業だいたいそのぐらい。学校ではそれが ×6授業。…….授業がつまらないと勉強が嫌いになる。
つまりは、説教がつまらないと…?
そして長年説教してると失われていく、「聞いてもらっている」という心。
確かに聴衆は語ってもらってる側。
でもだからと言って、説教者は語ってあげてる側ではない。説教者は聞いてもらっている側だ。
聴衆はあなたのためではなく、神様のために時間を聖別して、”神の”メッセージを聴きに来ている。
神のメッセージは決してつまらないものじゃない。つまらなくするのは人間の側だと思う。
私は私のメッセージが、まじでつまらないと思っている。
聞いてる人たちに、子どもたちに、いつもごめんと思う。
だからもっとおもしろく喋るにはどうしたらいいのかって、いつもそればっかり考えてる。
だって聖書は最高におもしろい書物だから。だから人の心を長い年月掴んできた。時代を超えて残り続けてるのがその証拠だと思う。
もしそんなにおもしろい聖書の話を、私から聞いた人が「なんて聖書はおもしろくないんだ」って思ったとしたら、それはどう考えても私のせいだ。
「__崇高な神のことばを取り次ぐのに、おもしろさなど邪道だ。」
って言われたこともある。
けど、もともとおもしろいものをつまらなくしているとしたら、
聖書のおもしろさを取り除くこともまた、邪道になるのでは。
(あ、これは極論です。)
私は、最高にユーモアで溢れた神のことばを、おもしろいままで、次世代へ伝えたい。
だからおもしろいものをつくれる人から、おもしろい原稿をつくる方法を学ぶ。
そうです。私の尊敬する、ケツメイシ先生から。
〜なぜケツメイシは飽きないのか〜メッセージ性とことば遊びの融合
最近わが家の車では、00'sの青春ソングがループ中。
あの頃はHipHop・R&B・レゲエの全盛期だったと思う。のに、今聴くと結構恥ずかしい歌詞とリズムでいっぱい。
ところが。
群を抜くケツメイシのすごさよ。いつ聴いても、時代を感じさせない、飽きない、恥ずかしくない。
それで、これメッセージに応用できるんじゃん?って思ったわけで。
__「韻を踏む」というRap必須の歌詞づくり。当時は韻踏みまくりの曲が溢れてた。
だけど、ただ「韻を踏む」ことに徹しすぎて、メッセージ性に欠けていたり、そもそも前後の文脈が繋がってないなんて曲が多かった、と今になって気づいた。
あんなに必死に覚えた歌詞も、10年経って、少なくとも私の中からは、歌詞も曲も忘れ去られてしまっている。
ケツメの凄さは、メッセージ性が強い歌詞の中で、上手く、かつカッコよくことば遊びがされていること。
ケツメが選ぶことば・韻は、歌詞(メッセージ)の味を引き立たせる、ひとつまみの塩みたいな感じ。
聖書メッセージも、ケツメぐらい遊び心をもっていいと思うんだよね。
___聖書メッセージに遊び心なんて邪道じゃないの?
なんて思った方。
いやいや、聖書はことばあそびとユーモアで溢れています。
***
旧約聖書の「哀歌」なんて、まさにその一つ。あんなに悲しい人生のどん底で、エレミヤは哀歌を書き記しました。
しかも、
あいうえお作文で。
哀歌はヘブル語のアルファベット歌になっている。
その時代の、後の時代のイスラエルに効果的にことばを残す文学的手法を、エレミヤは使ったのではないかと考えられるが、
__あの苦しい人生の最中に、あいうえお作文なんて書いている場合ですかエレミヤさん。
でもそこまでしてエレミヤは、神のメッセージをイスラエルの民へ伝えたかったのではないだろうか。
そして今、エレミヤの残したこの「哀歌」は、聖書に採用されている。
***
そのエレミヤが神様に召されたエレミヤ書1章では、エレミヤが神様に、「何を見ているの?」って聞かれたから、「שָׁקֵד:シャーケード(アーモンドの枝)」って答えたら、
神様は「שָׁקָד:シャーカード(わたしもみんなのこと見てるよ!)」って駄洒落をかますっていうシーンがある。
ものすごくわかりやすく言い換えると、
神様「エレミヤ、何の匂いだと思う?」
エレミヤ「花の匂いですか?」
神様「そうなんだよ、鼻にくるだろ?花だけに」
エレミヤがその後、神様に対して何か言ったか言ってないかはわからない。
でももし神様のギャグにエレミヤが「…。」ってなって、何も言えなかったのかな〜なんて想像すると、かなり笑える。
しかも、これはかなりイスラエルが堕落・腐敗している時代でのフレーズ。この時代に神様の方から笑かしてくるなんて、さすがの寛大さ。
ワクワクメッセージをつくろう
よし、ではケツメイシのことば遊びを、説教に生かしてみようじゃないか。
①説教はまるで歌のように
私が聞いていて難しいと思う説教の特徴のひとつは、一文が長い傾向にある。
読点(、)が多くて句点(。)までが長い。そんなあなたは、句点の数を増やしてみては。
一文は、歌で例えるならワンフレーズ。息継ぎから息継ぎまで。
喋りの場合、「、」で息継ぎができてしまうから、一文が長くなってしまう。
もし自分の一文を息継ぎなしで話してみたら、自分の一文は長いから短いか、よくわかるはず。
説教原稿をつくる、から ▶︎▶︎▶︎ 歌詞を書くというイメージに転換してみては。
②出来上がった「歌(説教)」にことば遊びをプラス
先に書いたように、「韻を踏む」ことに徹しすぎた歌づくりは、メッセージ性に欠けた歌になってしまう。
だから、まずはメッセージをしっかり整える。
そうしてできたメッセージに、「ことば遊び」を加えてみよう。
「よくよく聴くと、実はことば遊びが隠れてました〜」みたいなメッセージって、また後から聴きたくなるし、注意して聴きたくなる。(私はね。)
哀歌もあいうえお作文だって知ると、ヘブル語で読みたく…なるのは私だけ?
ことば遊びの例としては、
・韻を踏む
・あいうえお作文 の他に、
・しりとり
・回文
・早口言葉
・五七五 などなど。
神様ご自身が洒落っ気いっぱいのワードセンスで、預言者へメッセージをしているんだから、私たちも洒落っ気たっぷりの説教メッセージ、してみてもいいのでは。
聖書はおもしろい
聖書は確かに、崇高な神のことばであり、聖なる書物。
だけど、よくよく見てみれば、ちゃめっ気・洒落っ気に溢れた書物で、文学的にもすごく優れた書物。
とてもおもしろいメッセージが詰まった書物。
__「聖書っておもしろい」
そう思ってくれる人が増えることを、心から願って。
▼ 高校時代にずっと聴いてた、ケツメイシ「ライフイズビューティフル」
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