表面だけなぞることで知った気持ちになってないだろうか
人は表層の問題について考える時に見えない問題はない事のようにしている。
自分の知らないことは起こっていないこと。
知っていることが世界の全てだと思う。
知識が武器になることもあれば、知識がないから幸せなこともある。
知識が増えていけばいくほど、違和感を感じることが多い。
そして、表層だけを見て騒いでいる人を見ると悲しくなる。
例えば今のコロナ。
22年間生きてきて、国がイベント自粛や学校の休講を要請するのは初めて見た。
世界中を見ると混乱し、思っているよりも大変な事態となっていることは誰でもわかる。
ただ、その中でも私な変わらずに手洗いうがいをし、そこにアルコールでこまめに拭く等のことを気をつけるようにしている。
過激に買いだめをし、咳をする人を嫌な目で見て、町中の人達がみんなマスクをつけている姿を見ると違和感を感じてしまう。
普段は起こり得なかった衝突や人間関係の摩擦など、心を疲弊する人も多いだろう。
情報元がどこかを調べることをせず、目に付いたもの全てを信じ、騒ぎ立てるその姿を見ると自分の命がかかった時人は変わるんだということを思い知らされる。
ピリピリする時期なのはわかる。
対応が遅かったりどっちつかずだったり問題を先送りにしているようにも思うから不安になる気持ちもわかる。
それでもどれが本当なのか、必要な情報なのか考えてみたら変わるんじゃないか。
自分の見た話、聞いた話が全てなのだろうかと疑わないのだろうかと。
人は結局目に見えて起こってる現象の自分が見たい部分だけ抽出してそれが正しいと思い込みたいだけなのかもしれない。
視界に入ってても見えてないものは無いものと変わらないのだから。
見たいものだけをみて、見たくないものはなかったことにする、そんな都合の良い解釈をしているのかもしれない。
確かにそれは負担も少なく、自分自身楽になるとは思うが、まずは立ち止まってみようと思う。
問題点はここだけなのか?それとも他にもあるのだろうか?この話の信憑性は?まだ見えてないものがあるんじゃないだろうか?
算数と違ってひとつの答えが出るわけじゃない。
出されたものが全て答えだと思う前に、見えない部分が隠されていないか考える必要があると私は思う。