25歳で学生気分が抜けてないと言われ29歳で考え方が幼いと言われた30女の進化論。
2022,ジム初め。
カラダを動かすこと、トレーニングをすることは
心身への孝行だと常々感じる。
1日のたった1時間を費やすことで気持ちもヒップも上向き。
トレーナーさんが毎回褒めてくれるから上向きこえて舞い上がり。
いつもありがとうございます。
そういえば物事なにも続かない私の、唯一なんだかんだ近くにいるトレーニング。
いや、今回も1年で3回リバウンドしているから継続してるとは言い難いのだが…。
出会って10年、完全にお別れしたことはない。
ような気がする。
なぜだろうか。振り返って考えてみると、やはり思いつくのは
モテたかったから。
もっといえば、
異性の前で堂々と脱げる身体が欲しかったから。
これしかない。
ここに関しては自他ともに認める、本当に"ブレない"部分だった。
とにかく私は昔から異性の目というものを、自意識過剰すぎるだろ並に気にして生きてきた。
この世に生を受けてから両親には最大級の愛情をそそがれた上に(いまだに会うと抱擁接吻有。)蝶よ花よと育てられ、自分は世界で一番かわいいのだとある程度の年齢まで本気で思ってきた。
という環境が関係しているかは定かではないが、とにかく、どの時代も興味関心ごとはすべて"異性"に関すること。
"異性"が絡んでいればエネルギーが満ちあふれていた。
好きな人のため、パートナーのためなら時間もお金も努力も惜しまずなんでもできる気がしていた。
そんな私だが、この年になってやっと世代交代していることに親子ともども気がつき(2日前くらいの記事に掲載。)今では、過去10年揺らぎなかった"異性"への情熱、狂おしいほどの熱量が消えようとしている。
いや、もうすでに消えてしまっているのかもしれない。
自分がナニモノなのかということの手がかりになったであろう
唯一のアイデンティティとも呼べるものの消失を前に、少々寂しい気もするが、不思議と怖さはない。
なぜならこれは自然のセツリなのだ。
もしわたしが、生涯"異性"に興味関心を持ち続けられたのなら
それはもうわたしが望んだ【自分自身】の代名詞と呼べる究極の答えとなり、今後の人生に大きな影響を与えてくれただろうが、それは叶わなかった。
なぜなら、私にはその覚悟がなかったからだ。
毎日男のケツを追いかけることだけを考え、行動し、トライアンドエラーを繰り返すことへの魅力がすでに魅力ではなくなっていたからだ。
ちなみにそういった生き方をしてる人自身は私は大好きだ。実際に周りにもいるしその信念に羨望と尊敬の念すら示している。
話し相手になると自分が当事者のようにワクワクする。
ただ、自分にはもう必要のないものとなっただけの話だ。
だがもし叶うなら、次に出会う狂おしいほどの熱量、信念には生涯"覚悟がない"という考えすら浮かばないほどにのめり込むことを願っている。
さて今日もいろんな出会い(本)があって、いつもどおり
お互いストレスを感じない程よい距離感にて付き合っている。
自分では気がついていなかった言動変化も起こっているらしい。
偉人の思考を少しずつインプットできているらしい。
このまま無理せず、一方でしっかり時間投資を行っていきたい。