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曇っても、空

もちろんさ、あの場所にいられたなら。そりゃあもう、まったく違う体験になる。お気に入りの夕空の写真よりもずっと多く、なにこれ夢みたいって思うだろう。きっと呟くだけじゃなくて叫ぶかもしれない。

分け隔てなく同じように夏の夕焼けに頬のうぶ毛を照らされて、季節特有の甘い切なさを、夕陽の熱を肌で見送って。手をかざすと赤く透ける指がいつまでも不思議。それぞれのやり方でリズムにたゆたういい顔がきっとたくさんあって、久しぶりの太陽がまぶたをふかふかにするのを待つように機嫌よく目を閉じたり、ただ音だけに全身の細胞をふるわせている姿に宿るほとんど祈るような静けさだって、目を凝らせばきっと見つかるだろう。今起きました、みたいに光を見つめたらそこにはわたしたちとおんなじように血の通った、厚みと重みと終わりのある7人が、わたしたちとおんなじように強さと弱さ・闇と光・人並みと人でなし、なんやかや混ぜこぜの全部入りで、さわれる人間としてくっきりと存在している、だなんて!

すごいなぁ。わたしはひとり、電波が一番安定してくれそうな部屋の窓を、風が感じられる程度に開けて、ライブのおともが白湯だけなのは行儀がよすぎて居心地が悪いのでなんとなくオレオを追加。へんなの、ライブの最中にオレオ、食べたことないよ?

昼間、5月に誕生日があったわたしのためにお弁当を作ってくれた友達と、公園の大きな木の陰にあやかってピクニックをした。腕や帽子の何が面白いのか散策中のアリを随時つまみだしながら、去年の今頃とは全然違っているあの子とわたしで。育ちのいいあの子といると、いじけたわたしもいつのまにか、明日ってそんなに悪くないよねふふふ、明るい日になる〜とか思えてくる。くる、くる。今日、わりと暑かったね。夕暮れに向かってひんやり冷えていく温度にからだがそよいでいるのがわかって、いい気持ち。朝、昼、夜とで全く違うこの質感を繰りかえし共有するのだ。地理的に近しいということが、その土地に生きる人々にとって形容しきれない親近感の湧きどころをつくる。共通の記憶に欠かせない水分みたいなものだ、とわたしはもう何度目かのことをまた考えている。飽きないよね。トリガーとか沸点とかそういう一個の点ではなく面なのだ。だって考えてみてよ、体に取り込む水を共有するなんて、実はかなりの親密さだと思わない?そう、喋らなくても滅多に会わなくても。きっと同じ草花を美しく、作物を美味しく感じる要領で共鳴できるようになるんじゃないかな、水を分かち合うことで。どう思う?とかなんとか。ボトル入りの水を飲む時代には流行らない考えだったかな。いろんな土地の水を飲んで身体がグローバル化したわたしたち。彼女はシルバーの結婚指輪が光るきれいな手で、手作りのマフィンをふたつ(それはわたしの好きなチーズとベリーの焼き菓子で)(喜んで食べるいつかのわたしをきっと彼女は覚えていた)、持たせてくれたのだった。白湯とオレオの隣に追加。

画面の向こう側とこちら側が同じように、みんなの夏の夜へと近づいていく。充分だ、とわたしは思う。日本と韓国の時差が無いことに感謝する日が来るとは思わなかった。

さあ一日の終わりの、はじまり・はじまり。



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