自分に条件をつけない
こういう自分じゃないと嫌だとか、
こういう自分じゃないと許せない。
そんなことを随分思って生きてきた。
今の自分じゃだめだ、こんな自分じゃだめだ、
そうやって、自分で自分を追い詰めてきた。
じゃあ、どんな自分になりたい?
あれも出来て、これも出来て、
あんなことも、こんなことも出来て、
どんなところに出ていっても恥ずかしくない、
自分の存在を認めてもらえるような、
そんな自分。
社会や世間が求めている理想的な人物像と
自分自身の性質が乖離しているとわかっていても、
少しでもそれに近づく努力をしないと、
自分は生きていてはいけないのではないか。
そんな罪悪感を、私はずっと抱えていた。
「今のお前じゃだめだ。今のお前じゃ生きている価値なんてないぞ」
罪悪感から漏れる声は、容赦なく自分を否定し続ける。
自分の声であっても、そんな言葉を聞き続けるのは正直しんどい。
しんどいのに、自分を否定するのをやめられないのは、
自己否定の中に
「ありのままの自分を守りたい」
という、自愛にも似た気持ちが隠れているからではないだろうか。
自分を責め立てる苦しみと引き換えに、
本来の不器用な自分を、社会や世間に許してほしい。
そんな嘆願にも似た思いが、そこにあるような気がする。
不器用だけど、皆と同じように生きていきたい。
そう思うからこそ、無理して世間や社会の声に耳を傾け、
そこに自分を寄せなければならないと苦しんだ。
でも、
世間って誰?
そもそも世間って、社会って、誰なんだろう。
どんな顔をして、どんな声をして、どんな風に笑うのか。
あちこちから発信される世間や社会は、よく見れば、
たくさんの顔を持った正体不明の化け物のようだ。
状況や情勢によって、その価値観を変幻自在に
手のひらを返すように変えていく。
そんな不安定なわからないものに、
自分の存在価値の有無を、預けてしまっていいのだろうか。
何だかわからないものが求める枠に
自分を当てはめて生きたところで、
結局、息苦しいだけではないだろうか。
自分を否定し、責め続けるのには限界がある。
本当は、自分を責めずに生きていきたい。
それならば、もう自分で自分を許すしかない。
こういう自分じゃないと嫌だとか、
こういう自分じゃないと許せないとか、
条件付きの自分しか愛せない自分と別れ、
今の自分をまるごと、そっくりそのまま
「条件をつけずに」「全て」
許していくしかないのだ。
そうしなければ、ありのままには生きられない。
「今までお疲れさま、ありがとう、さようなら」
そう心の中で呟いてみた。
すると、自己否定にまみれていた今までの自分が、
少しホッとしたような顔をして、私の中から消えていった。
今、私の中には、ただひとり、不器用な自分だけが残されている。
「やっと許してもらえるの?」
何故私は、こんなにも自分を罵っていたのだろう。
膝を抱えていた本当の自分が、
泣きそうな顔をして私を見上げていた。
「今までごめんね」