だから人を殺してはいけないのだ
昨夜私は、
何だかわからない不快感を抱えていた。
無理やり理由を探すならば、
バイオリズムによる体調不良。
と言って片付けるしかないようなものだった。
理由なきイライラモヤモヤの不快感は、
目に映るもの、思い浮かんだもの、
全てを不快な思考へと発展させてしまう。
不快感がぐるぐる回って止まらない。
そんな渦巻く時間の中で、
ふと、あの人の文章を読みたい!と思った。
自分の理由なき不快感をなだめてくれるのは、
その人の文章だと、漠然と思ったのだ。
まだ微かにモヤモヤが残っていた今日、
その人は嬉しいことに記事を投稿してくれた。
バクゼンさんと息子さんの出来事が綴られている。
私の想像力では補えないような、事実。
その事実を読みながら、なぜか私は
とても不思議な感覚になった。
不快から逃れたい一心でバクゼンさんの文章を求めた私と、
バクゼンさんの息子さんの発する気持ちのうねりは、
似たようなエネルギーを持っているのではないか。
そう思ったのだ。
二つのエネルギーをリトマス試験紙に浸したら、
似た色合いになるのではないか。そんな気がした。
私に勝手にこんなことを思われて、
バクゼンさんや息子さんには、大変迷惑な話かもしれない。
本当に申し訳ないと思うのだが、
私が感じているものと遠くないものが
バクゼンさんの息子さんの中にある。
私はそう思ってしまったのだ。
その感覚は一言で言えば、
バクゼンさんの息子さんの中に私がいる。
という感覚だった。
それを感じた時、私は得も言われぬ幸福感に包まれた。
もしかしたら、バクゼンさんの息子さんの中だけでなく、
みんなの中に、私がいるのかもしれない。
今まで読んできたnoteを思い返してみても、
言葉を超えた、
共感以上の何かを感じた記事がいくつもあった。
みんなの中に、
みんなの感覚や感性やエネルギーの中に、
私がいるような気がする。
自分ではない肉体を持つ人の中に、
自分の感覚が流れていると感じる。
それは言うなれば、
大切な人と同じ空気を吸うような心地よさだ。
この心地よさには、包まれるようなあたたかさがある。
そのあたたかさをぼーっと感じながら、私はふと思った。
あぁ、そうか、
だから人を殺してはいけないのだ。
急に浮かび上がったにしては
随分とインパクトの強い言葉だが、
本当にそう思ってしまったのだ。
なぜ人を殺してはいけないのか?
その問いに、恥ずかしながら私は、
今まで実感を伴う答えを持っていなかった。
「人を殺してはならない」ということを、
理屈も倫理もへったくれもなく、
問答無用に当然のこととして捉えていたらいいと思っていた。
でも今日私は、
今の私が納得できる答えを見つけたような気がした。
なぜ、人を殺してはいけないのか。
それは、他人の中に、自分がいるからだ。
人を殺すということは、
自分を殺すことにつながるからだ。
人を殺す理由に、どんな大義名分があろうとも、
自分が望み、自分の意志で人を殺すことは、
自分への愛を、なげうち、捨て去ることだということを
覚悟しなければならないのだと思う。
私の実感や感覚を言葉に変換すると、
こんなふうにしか表せないことに、
もどかしさを感じる。
しかし、実感を言葉にするということは、
きっと、そういうものなのだ。
今日、私はバクゼンさんのおかげで、
とてもあたたかい幸せに包まれた。
もしかしたら今、私の顔は、
歯磨きをしてもらったバクゼンさんの息子さんのように
あま~い、笑顔になっているかもしれない。
今日得た実感を、どうしても残しておきたいと思いました。
強いタイトルになってしまったため、バクゼンさんの記事を引用することに怖さもありましたが、迷った末、引用させて頂くことにしました。
試行錯誤して書きましたが、私が感じたそのままには、
伝わるものではないと思っています。
違和感や不快感を感じてしまった方がいらしたら、申し訳ありません。
読んで頂き、本当に有難うございました。
バクゼンさん! 本当に有難うございました!
お読み頂き、本当に有難うございました!