思い出は風になった
まるで、写真で切り取ったかのように、忘れられないシーンがある。
文化祭のための荷物を搬入している時、
荷物を積み終えた彼が、私に向かって走ってきたのだ。
「もう、何もない?」
その時、私の心に風が吹いた。
スーッと気持ちよく、さわやかに。
何とも言えない心地よい風が吹いたのだ。
風にのって走ってくる彼を、
あぁ、いいなぁ、と思ったのを覚えている。
◇
文化祭の準備で帰りが遅くなり、
彼と彼の友人、私の三人で、電車に乗ったことがあった。
三人でドア側に立って話をしていると、彼が
着ている黒いダウンパーカーの、パーカー部分を持ちながら、
少しイライラした様子で、友人に言った。
「おい、これ邪魔なんだよ。お前、これ引きちぎってくれよ」
私は一瞬目を丸くしたが、すぐにおかしさがこみ上げてきた。
言われた方も困っている。
「そんなことしたら、お母さんに怒られるよ」
私は笑いながら言った。
ダウンパーカーのパーカーを引きちぎったら、
中の綿が出て、もう着られない。
縫い目からキレイに引きちぎれるわけがないのに、
彼にはそれがわかっていないのだ。
男の子なんだなぁ、と同級生なのに、何だかかわいいと思ってしまった。
◇
文化祭の打ち上げで、皆でファミレスに行ったこともあった。
私の席は、彼の隣。
まさに袖が擦れ合う距離。ムフフ、なんて思っていたら
「オレ、左利きだから、
食べてる時に肘が当たっちゃうかもしれない。ごめんね」
と私に言う。
左利きの人は大変なんだな、と思ったのと同時に、
麻丘めぐみの「わたしの彼は左きき」が脳内を流れたのは言うまでもない。結局、肘は当たらず、無事に食事を終えたのが、
何だか残念でならなかった。
ここまで彼に好意を抱きながら、なぜか恋には至らなかった。
友達でもなく、恋でもなく、少し距離が近づいた同級生。
そんな風通しのいい距離感が、何とも心地よかったのだ。
◇
高校卒業後しばらくして、彼から電話が来た。
免許をとったそうで、ドライブを兼ねて、
地元の高幡不動に連れて行ってくれたのだ。
あの時のように走ってきた彼は、
少し雰囲気が違っていて、髪も茶色くなっていた。
風にのって、黒い前髪をなびかせた彼はそこにはいない。
卒業して、さほど時間は経っていないはずなのに、
こんなに印象が変わるものなのだろうか。
前のほうが良かったな、などと思ってしまったが、
その気持ちは、すぐに飲み込んだ。
「何か、変わったね。中学の頃のほうが良かった。あの頃に戻ってよ!」
中学時代の友人に、そう言われたことを思い出す。
人に気を遣い、疲弊していたあの頃に、私は戻るつもりなどなかった。
だから変わった彼を見ても、
「前のほうが良かった」なんて簡単に言えない。
彼の心の変化がそうさせたのだから、それは仕方がないことなのだ。
そしてその日、いつもの風は吹くことなく、
じゃあねと別れて、それっきり。
◇
今、彼がどこに住んでいるのか、わからない。
彼の方も、私がどこにいるのか、知らないだろう。
でも私は寂しくない。
こちらに向かって、走ってくる彼を思い出すだけで、
私の心には、あの頃と同じ風が吹くからだ。
さわやかで、気持ちのいい風。
私はいつでも、あの頃の彼に、会いに行くことができる。
それくらい、時を超えた距離感の方が、
人妻となった今の私にはちょうどいいのだ。