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南極のおじさん

 私が初めて映画館に連れて行ってもらったのは、4歳のときだ。
 母からすれば、映画の途中で我が子が、
「おしっこ!」
 なんて大きな声を出しはしないか、気が気でなかっただろう。実際、映画に行く日の朝、母は私に様々なことを言って聞かせた。

「おしゃべりしたらダメよ」
「前の座席を蹴ったらダメよ」
「足をぶらぶらさせたらダメよ」
「モゾモゾ動いたらダメよ」
「キョロキョロしたらダメよ」」

 私はそれらの「ダメよ」を聞きながら、一つでも破れば、後からドカンと大きな雷を落とされるに違いないと、内心びくびくしていた。

 でも、そこまでしつこく言い聞かせるなら、子供が楽しめるアニメ映画を見せてくれればいいものを、母が選んだ作品は、なぜか高倉健主演の「南極物語」だった。 

 南極物語は、南極観測隊の苦難と、南極に取り残された樺太犬の悲劇を描いた作品だ。実話を基にした大作だった。

 初めて映画を見る未就学児には、些か渋すぎる作品だと思うのだが、母は、
 犬が出てくる映画ならきっと静かに見てくれるだろう。
 
そう考えていたようだ。

 そんな母の目論見は当たったようで、私は微動だにせず映画に見入っていたらしい。しかし残念なことに、映画の内容はあまり憶えていない。二匹の犬が氷上を駆けるシーンは何となく記憶に残っているが、幼い私の目に焼き付いたのは、健さんでも、犬でもなかったのだ。

 初の映画鑑賞を無事に終えたある日のこと。
 母と二人で銀行に行き、窓口から声がかかるのを待っていた。
 長椅子の背もたれに顎を乗せて座り、私は周囲をキョロキョロ見渡す。躾に厳しかった母は、こういうときも、愚図ったり、大きな声で話すことを決して許さなかった。騒いだりしたら、後が怖い。私はただひたすら、お口にチャックをし、黙々と人間観察に勤しんでいた。

 そのとき、自動ドアがグイーンと開き、たくさんの大人たちが、ぞろぞろと銀行にやってきた。
 その輪の中心に、ひときわ目を惹く男性がいる。
 私はその人に見覚えがあった。街中で偶然知っている人に会ったら、大人でも思わず「あっ!」なんて声を上げてしまうものだ。それが4歳児ともなれば尚更のことである。
 私はその人物を指さし、銀行内に響き渡るような大声を上げた。

「あっ!! 南極のおじさんだぁー!」

 
 私の小さな指がさし示す先にいたのは、俳優の渡瀬恒彦氏であった。


 南極物語には、渡瀬恒彦氏も重要な役で出演していた。その役どころは、そりを引く樺太犬の教育係。厳しく犬を躾ける渡瀬氏の迫力のある演技を見て、私は、

 うちのお母さんみたい……。

 そう思った。犬を躾ける渡瀬氏と、私を躾ける母の姿が重なる。そのせいで、私の脳裏には渡瀬氏の鋭い眼光がしっかり焼き付いてしまったのである。

 突然発せられた私の大きな声に、銀行にいた人たちが一斉に振り返った。

 スラリとしているのに、骨太で色っぽい渡瀬氏の姿に、周囲から溜息のような歓声が上がる。躾に厳しい母も、このときばかりは娘を叱るのを忘れ、スター俳優を見逃すまいと、その目はしっかり渡瀬氏を追っていた。

 皆の視線を一身に受けた渡瀬氏は、照れくさそうに下を向いた。サングラスも帽子もかぶっていない、堂々とした出で立ちだったが、まさか子供に指をさされ、声を上げられるとは思わなかったのだろう。
 いやぁ、まいったなぁ……。
 そんな心の声が聞こえてきそうな、はにかんだ表情を浮かべ、渡瀬氏は来た道を引き返して行った。

 銀行に用があったはずなのに、私の大声のせいで、それを果たせず去ってしまった渡瀬氏。もし、お金をおろそうと思っていたのだとしたら、その後、お金は足りたのだろうか。心配である。

 しかし、今になって考えてみると、あれほどの名優を
「南極のおじさん」
 呼ばわりするなんて、何とも失礼極まりない話だ。

 だが、あのときの渡瀬氏のくすぐったそうな笑顔から想像するに、たぶん、怒ってはいなかったと思う。むしろ、

 あんな小さい子も映画を観てくれたんだな。

 そんな気持ちで、子供の無礼を許してくれたのではないか。
 私は勝手にそう思いながら、今は亡き名優の姿を、瞼の裏に映している。




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