六千万の胸騒ぎ
ああ、鉄筋コンクリートの建物って、なんて楽なんだろう。
現在の住まいに越してきたとき、私はそう思った。
それまでは、都内某市に16年間暮らしていたのだが、そこは木造二階建てのアパートだったからだ。
元々、夫はあまり住処こだわりがなく、通勤にかかる時間が30分以内であれば、贅沢は言わない。というタイプだ。
私も大きな出窓が欲しいとか、ロフトがいいとか、特に希望もなく、心霊現象さえなければいいや、くらいにしか考えていなかった。
何のこだわりももたずに、《縁》だけで選んだ部屋の間取りは、2Kの縦部屋だった。
真ん中に4.5畳の部屋があるのだが、キッチンが3畳しかなかったため、中部屋まで食器棚がせり出していた。
考えてみれば、28平米しかない部屋で、よく夫婦二人で16年も暮らしたものだと思う。
今の住まいは、鉄筋コンクリートの三階建てで、広さも倍近くになった。これまで長く木造住宅に暮らしていたので、マンションタイプの建物の住み心地の良さには驚いた。
木造のときは、カビとの戦いだったが、今は以前ほどの苦闘は強いられていない。築50年越えの築古物件なのだが、鉄筋というだけで、こんなにも住まいの手入れが楽なのかと、感動したものだ。
そうなると、ゆくゆくはマンションを買って住むのも悪くないなぁ、なんて夢を抱く。
しかし、マンションというものは、戸建てと違って、家賃の前払いだな、なんて思ったりもする。管理費も必要だし、修繕積立金なども必要になる。そのうえで固定資産税を払うとなると、今現在住んでいる家賃と大差ないのではないか、と考えてしまう。
賃貸のほうが便利な場所にあることが多いし、いろいろ気楽な面がある。
それでも、所有というものは実に魅力的だ。
今、私はパソコンを使ってこの話を書いているが、もしこれが借り物だったら、キーボードを打つ手に遠慮が出ると思う。なにより、自分のものだ、と思うことで得られる安心感は大きい。
ああ、いいなぁ。マンション……。
そう思い、指をくわえる。条件が合えば今すぐにでも買いたいと思ってしまうが、現在の賃貸暮らしと同等の住環境のマンションを探すとなると、なかなか厳しいものがある。
今、私は埼玉県の某市で暮らしているのだが、今現在暮らしている周辺でマンションを探すと、30年越えの築古マンションでも結構な値段だ。都心にもそれなりに出やすく、ちょうどいい場所として、需要があるらしい。
そんなこともあってか、私が住む目と鼻の先にも、ここ数年のうちに2棟の分譲マンションが建った。新築なのできれいだ。
私たち夫婦は、そのマンションの横を通るたびに、
「マンション、ここでいいんじゃない?」
「そうね、ここでいいね」
「引っ越しも楽だよー」
「目と鼻の先だもんね」
夫婦でそんなことを言い合うという茶番を繰り広げている。
そのマンションが建ったとき、我が家にもチラシが入った。そこには確か、販売価格が《3500万~》などと書かれていた記憶がある。
「あそこのマンション、もし中古で出たら、2500万くらいにはなるだろうか」
「そうだねぇ。いやぁ、まだ新しいし、値引いても500万くらいじゃない?」
「じゃあ、3000万かぁ」
夫婦の与太話は続いていく。
そんなある日のこと。
我が家のポストに、一枚のチラシが入った。
夫がそれを見て息を呑む。
「どうしたの?」
私が訊くと、夫は手に持っていたチラシを差し出した。
よく見ると、それは中古マンションの販売チラシだった。良い物件でも見つけたのかと手に取ると、夫が一言、
「胸騒ぎがするよ」
と、言った。
なんのことかと、写真に載っている外観を見る。見覚えのある建物だ。
「これって、あそこのマンションだよね」
あの、目と鼻の先の分譲マンションだったのだ。すると、夫は声も出さずに、トントンと価格の欄を指先でたたく。
そこには、こんな文字と数字が並んでいた。
販売価格・6000万円
「え?」
こりゃ、疲れ目だな、と思い、目頭をぎゅっと押さえた。目を見開いて、もう一度価格を見る。
販売価格・6000万円
ああ、どうもこれはいかん、と思い、今度はしっかり目をこすって、顔までさすって、もう一度チラシを見てみた。
販売価格・6000万円
我々の予想のはるか上をいく価格に、私は茫然とした。おそらく、最上階の部屋だろう。だが、まさか、目と鼻の先のマンションに6000万以上の価格をつける部屋があるとは、思いもしなかった。
夫が言う。
「ね、胸騒ぎがするでしょう?」
驚きはしたが、胸騒ぎなどしない。
こんなにマンションが高値になってしまい、この先どうしたらいいのやら、と不安に苛まれる。
お、おそろしい……。
その価格にぶるぶる震えていると、夫はまた
「ねぇ、胸騒ぎするよね?」
と言った。
「は?」
「今にも俺たちの横で、郷ひろみが歌い出しそうだと思わない」
と夫は言い、続けざまに歌った。
「出逢いは、6000万の、胸騒ぎぃー♪」
それにつられて、私もつい、
「6000万! 6000万!」
と、合の手を入れる。
ご存じない方には、なんのことやら、とお思いかもしれないが、郷ひろみの曲に、
「2億4千万の瞳 エキゾチック・ジャパン 」
という名曲がある。
作曲は井上大輔氏。作詞は、チェッカーズの作詞を多く手掛けた売野雅勇氏である。サビの部分で、郷ひろみは軽快なリズムでこう歌うのだ。
「出逢いは億千万の胸騒ぎー♪」
実際のマンションは六千万だったが、我々夫婦にとって、その衝撃は億千万も六千万も変わらない。
どちらにせよ、もう歌うしかない。夫婦で破れかぶれである。
それからというもの、そのマンションを通る度に、《2億4千万の瞳》が頭の中で流れるようになってしまった。ため息交じりに築50年越えの賃貸マンションの自宅にたどり着くと、
「6000万! 6000万!」
と、歌わずにはいられない体になってしまったのである。