隠れ身の術
自宅に友人を招待したと仮定する。
楽しく呑んで食べて飲み会もお開きとなり「じゃあ、またね」と言って、玄関先で友人と別れる。片付けをして、布団を敷いて、歯をしっかり磨いて、就寝。
朝になり、少し飲みすぎちゃったかなぁ、なんて思いながら、顔を洗おうと洗面所に行くと、昨夜玄関先まで見送ったはずの友人が、
「あ、おはようございます」
と言って出てきたら、普通の人はどう思うだろう。思わず、
「お前、昨日帰ったよね? なんでいるの?」
という言葉が口をついて出てくるはずだ。それだけではない。
「お前、今までどこにいたんだよ!」
と、若干の恐怖を抱いてしまうだろう。
天井にでも張り付いていたのか、ドラえもんのように押し入れで寝ていたのか、玄関先で別れたはずの友人が一晩、自宅のどこに隠れていたのか、考え込んでしまうはずだ。
実際、そんな稀有な体験をすることはないだろうが、それに近いことが先日、私の身に起きたのである。
兵庫県姫路市には、うどんと焼きそばの麺を混ぜて、ソースで味付けして焼いた「ちゃんぽん焼き」というものがあると知り、食べてみたいなぁと夫婦で話していた。
残念ながら、うどんはあったのだが、焼きそばの買い置きはなかったので、夜、焼きうどんを作ることになった。青海苔と鰹節をたっぷりかけ、ズルズルとすすり込み、ごちそうさまを言い、片付け、布団を敷き、しっかり歯を磨いて、私は就寝した。
なぜ歯磨きの部分をわざわざ「しっかり」と強調したかというと、私の夫は歯磨きマニアで、歯磨き粉、歯ブラシ、デンタルスロスに至るまで、夫が吟味した製品を使っている。歯の細かいところを見られる小さな鏡などもある。
歯科衛生士ばりの夫の指導により、私は毎回、デンタルフロスの使用を義務付けられているのだ。
それなのにである。
翌朝、起床し、歯磨きをし、口をゆすいだ時、
「あ、おはようございます」
と、青海苔と予想外の再会をしてしまったのである。
デンタルフロスを、全歯間にググっと通して、昨夜お別れしたはずだった。あんなに丹念にお別れしたはずなのに、
「あ、おはようございます」
と、その緑色の顔をのぞかせたのだ。私は思わず、
「あなた、今までどちらにいらっしゃいましたか?」
と、聞きたくなってしまった。
青海苔は隠れ身の術の名手なのだ。もしや、伊賀、甲賀あたりで忍者の修行でもしていたのかもしれない。
起床後、歯を磨き終え、部屋に戻ってきた夫に私は言った。
「さっき、歯磨いてたら、昨日の青海苔が出てきたよ」
おそらく「もっとしっかり磨きなさい」とか「もっときちんとゆすぎなさい」「フロスを通しなさい」など、夫から小言を食らうかと思っていたのだが、私の予想に反して夫から出た言葉は、
「オレも」
の一言であった。
歯磨きマニアの丹念な磨きの手もかいくぐる青海苔。
やはり伊賀甲賀の者に違いないと産地を調べてみたら、青のりの主な産地は、岡山県、徳島県(吉野川)、愛媛県、高知県(四万十川)…。
伊賀甲賀とは縁もゆかりもないことがわかった。
それもそのはずだ。
大体忍者というものは山奥にいるものだ。地図を見ればわかるが、伊賀甲賀だけでなく、忍者で有名な長野県戸隠だって山深いところにある。青海苔は緑の色彩だけみると野菜のようだが、よく考えてみたら、彼は海藻。海や川の出身なのだ。
なんということだろう。
青海苔は天賦の才能でもって、あの隠れ身の術を習得していたのである。
こちら、ちゃんぽん焼きの動画です。9:13あたりから焼き始めます。
その他の夫とのエピソードはこちらのマガジンにまとめています。