喫茶・街クジラの閉店 #短編小説
「街クジラ?」
涼太が闇雲に街を歩いていると、おかしな名前の喫茶店に辿り着いた。年季の入った看板を見上げると、やはりそこには《喫茶・街クジラ》の文字がある。
恋人の真里菜にフラれてヤケになり、歩き続けて、そろそろ二時間。休憩がてらコーヒーでも飲もうと思った涼太は、重そうな木の扉に手をかけた。
カランコロン。ドアベルの優しい音が鳴る。
店に入ると、殺風景で飾り物がほとんどない。違和感を覚えながら、店内を見回していると、奥から店主らしき白髪頭の男がやってきた。
「あれ? もう閉店なんですけど……」
表にあるプレートは、営業中のままだった。おそらくひっくり返すのを忘れてしまったのだろう。涼太が「そうですか……」と言って引き返そうとすると、
「コーヒーだけでもいいなら、どうぞ」
店主がカウンターの椅子をひいてくれた。
涼太は軽く会釈をして木製の椅子に腰を掛けた。
「いやぁ、何も無いでしょう? 実は今日で店じまいだったんですよ。お昼過ぎまで常連さんが集まってくれて、中を片付けていたところだったんです」
ただの閉店ではなく、店の営業自体をやめる、ということらしい。
「忙しいときにすみません」
涼太は頭を下げた。
「いえいえ あ、そうだ! まだアレひっくり返してなかった」
店主は慌てて外に出て、営業中のプレートをひっくり返すと、またすぐに戻ってきた。
「私も一緒に飲んでもいいですかね。ちょうど休憩したいところだったんです」
店主の言葉に、涼太はうなずいた。
「学生さんですか?」
手挽きのミルに豆を入れると、店主はぐるぐるとハンドルを回し始めた。
「はい。ここから二駅先にキャンパスがあるんですけど……」
ガリガリと豆を挽く音が心地いい。
「ああ、あそこの! 随分昔、そこの学生さんにバイトに来てもらったことがありました。いい子でしたねぇ」
店主は懐かしそうに目を細めた。
「このお店、今日で閉店なんですか?」
「ええ、私ももう70過ぎたんで、今日で引退です。先代の伯父から受け継いで私が二代目だったんですけど、いやぁ、風変わりな店なのに、よくここまで続いたもんですよ」
「街クジラって、ちょっと変わった名前ですよね」
涼太が言うと、店主はハハハと笑った。
「本当はね《喫茶・ラジオ街》って名前の店になるはずだったんですよ」
その名前も変わっている。
「伯父はラジオの収集が趣味で、最初は真空管ばかりでしたけど、トランジスタラジオが流行してからは、それをコツコツ集めてました。たくさんのラジオに囲まれた、ラジオ好きが集まる喫茶店にしたかったそうです」
「だから、ラジオ街」
「ええ。それで、店の看板を作ってもらうとき、伯父が横書きで《ラジオ街》と手書きでメモして、看板職人に渡したそうなんです。そしたら、その職人が古い人だったもんだから、横書きを右から左に読んだんですね。しかも伯父は悪筆ときている。年寄りの霞んだ目には、カタカナの《オ》が《ク》に見えたらしいんです。完成した縦書きの看板を見たら《街クジラ》になっていて……。でも、その看板の出来が良かったものだから、伯父は屋号の方を変えたんですよ」
店主は挽いたコーヒー豆を、ネルフィルターに入れた。
「大らかな方ですね」
「ええ、魅力的な人でしたよ」
店主は豆を蒸らしたあと、静かに湯を注ぎ、じっくりコーヒーをドリップしていく。漂うコーヒーの香りを吸い込みながら、涼太は、自分もそのくらい大らかな人間だったら、真里菜にフラれずに済んだのではないかと考えていた。
「どうぞ」
琥珀色した飲み物は馥郁としていて、口に含むとその香りがどこまでも体の中を伝っていくようだった。
「実はぼく、今日彼女にフラれちゃったんです」
気持ちがリラックスしたのか、涼太はつい、店主にそんなことを漏らした。
「おや、そうでしたか」
店主はコーヒーカップを片手に持ちながら、涼太に穏やかな眼差しを向ける。
「彼女に『あなたは私の話を全然聞いてない』って、言われちゃいました。そんなつもりはなかったんですけど……」
涼太は肩を落とす。
「でも、韓流スターとか、流行っているコスメの話しとかされても、ぼくにはちんぷんかんぷんで……名前が頭に残らないんです。世界史で習った、マルクス=アウレリウス=アントニヌスとか、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世とかなら、覚えていられるんですけど……」
ちなみに、マルクス=アウレリウス=アントニヌスは、第16代ローマ皇帝、五賢帝最後の皇帝で、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は、サルデーニャ王国の最後の国王、イタリアの初代国王である。
「そういえば、うちの死んだ女房は、野球のルールが全く覚えられなかったなぁ。野球中継見ながら『犠牲フライってなあに?』って、何度も訊かれましたからねぇ」
どんなに面白いものでも、自分が興味の持てないことは、右から左へと通り過ぎてしまうものなのだ。
「きっと趣味が合わなかっただけで、あなたが悪いわけじゃないと思いますよ」
店主はそう言って涼太を励ましてくれた。
「でも、人の話を聞くのって、やっぱり難しいです」
涼太がうつむくと、店主が名案を思いついたような顔をした。
「だったら、ラジオを聞いてみたらどうでしょう」
「え?」
「ラジオは、テレビと違って映像がないでしょう? だから、話すほうは、言葉だけで物事を伝えようとする。そうやって言葉を操る人の話は、聞いていて面白いもんですよ。興味のない話でも、引き込まれることがある」
「へぇ。 あ、でも、ぼく、ラジオ持ってないんです」
涼太が言うと、店主は「ちょっと待ってください」と声を掛け、店の奥へと引っ込んだ。再び現れたときには、手に武骨な機械を抱えていた。
「今なら、スマホでも聞けるんでしょうけど、こういったラジオで聞くと、また味わいが違って良いもんです。ちょっと重いですけど、もしよかったらこれ、差し上げますよ」
《GX World boy》と書かれた黒いボディのラジオは、チューニングのダイヤルがメタリックで、光を跳ね返すような艶があった。左下には《National》の文字。今でいうPanasonic製である。そのレトロで重厚な造りに、涼太は目を奪われた。
「カッコいいっ!」
「でしょう?」
店主は自分が褒められたかのように、嬉しそうに声を上げると、コンセントを差し込み、使い方を説明してくれた。
涼太が生まれる前につくられたラジオの音は、どっしりとした深い響きがあった。クリアな音は、声の味わいまでキレイにしてしまうが、この音には聞き心地のいい雑味がある。
「ああ、よかった。ちゃんと聞こえる」
音が鳴ったことに安心した店主は、丈夫な手提げ袋にラジオを入れて持たせてくれた。コーヒー代も「この店の最後の一杯だから」と言って受け取らなかった。
「ごちそうさまでした」
店先まで見送ってくれた店主のやさしさが、失恋したばかりの涼太の心に、じんわりしみた。
一人暮らしの部屋に帰ると、涼太は買い置きのカップ麺にお湯を入れ、ドカッと座って、スマホをいじった。いつもはそれで時間がもつのだが、失恋の痛手のせいか、今日は、そのいつもの感じが、やけに寂しい。
涼太は早速、店主からもらったラジオのスイッチを入れてみた。
馴染みのない声が聞こえ、何やらしゃべっている。特に面白いわけでもないが、人の声がBGMのように流れていると、不思議と安心感があった。
夜中に目が覚めると、涼太はまた、ラジオのスイッチを入れた。
今度は三人の芸人が、昭和のプロレスの話や、そうめんはどうやったら美味しく食べられるか、なんて話をしている。楽しそうな雰囲気に、心が和んだ。気づけば涼太は、ラジオを聞きながら声を上げて笑っていた。興味のない話を面白いと思ったのは、この日が初めてだった。
それからというもの、涼太の生活にラジオは欠かせないものとなった。
大学を出て、就職をし、結婚して、父親となった今でも、《喫茶・街クジラ》の店主からもらったラジオは、かけがえのない友のように、いつも涼太の傍にある。