百円玉で、私を救う
私ってダメだなぁ、と思うことがある。
昨日もちょっとだけそんなことを思ったし、おとといも気づけば自分の粗探しをしていた。私はつい、自分のことをダメな人間だと思ってしまう性分らしい。
随分昔のことになるが、あまりにも自分をダメだと思い過ぎて、献血に行ったことがある。
どんな人間にも、一応血液は流れている。初めて献血に行ったとき、採血してくれたスタッフの方に、
「あなたの血は素晴らしく良い血です! あなたなら400ccいけます!」
そう褒めてもらったことがあった。
自己肯定感がダダ下がり状態だった私は、そのことを思い出し、せめてこの血が誰かのお役に立てればと、献血ルームに足を運んでいたのである。
献血を終えた私に、スタッフの方が丁寧なお礼の言葉をかけてくれた。何の邪気もない
「ありがとうございました」
の一言に、私は危うく涙がこぼれそうになった。
このとき私は、わかりやすく、誰かの役に立てたことを実感できた。
それから月日が流れ、つい先日こと。
この日、またしても「私ってダメだなぁ」の声が、ラジオのように頭の中で鳴り始めた。
そのとき、私は買い物をしようとコンビニのレジに並んでいた。もし、ここで献血ができるのなら、私はすぐさま腕をまくり上げて、
「400ccで!」
と言い放っただろうが、コンビニで献血はできない。
小さく溜息をついた次の瞬間、私の目がレジカウンターに置いてある、透明の募金箱をとらえた。
私は財布から百円玉を取り出し、一枚入れた。
カチャリ。
硬貨が落ちる音がする。
その音を聞いたら、頭の中に鳴り響いていた「私ってダメだなぁ」の声が少し、小さくなったような気がした。
硬貨の落ちる音は、わかりやすく、誰かの役に立てたことを実感できる音だった。
志も何もない、とても情けない寄付のしかただと思う。
でも、こんな気持ちで寄付した百円玉でも、お金であることに変わりはなく、志をもって寄付した人と、同じ寄付金として平等に扱ってもらえる。
透明の募金箱にもう一度目をやると、硬貨が重なり合い、どれが私の入れた百円玉かわからなくなっていた。他の人が入れた硬貨の中に、自分の百円玉が紛れてくれたことに、私は何だかホッとしていた。
未来を考える余裕もなく、ただ自分の気持ちを慰めるための寄付であっても、そのお金は未来への一助となる。
でも、このとき私は、募金箱にお金を入れることで救われたのは、寄付した先にいる誰かではなく、自分自身のように思えてしかたなかった。
だとしたら、
「寄付させてくれてありがとう」
そうお礼を言わなければならないのは、私の方なのかもしれない。
お題企画「#寄付してよかったこと」
で、優秀賞を頂きました。有難うございました!