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書く人 #短編小説

 「書く時間なら、たっぷりあるんやけどなぁ。おっかしいなぁ」
 雅也はそんなことを言って、ゴロンと横になった。
「やっぱり、あの中京の重賞レース、買っといたらよかったんや。俺の《コーヘー》が一着やったんやぞぉ。あれを買ってたら今頃、俺の調子も上向きやったはずやのに……」
 聞き捨てならない。

 雅也は先週、一万円貸してくれと私に言った。贔屓ひいきにしているジョッキーが必ず勝つから、馬券を買わせてくれとせがんだのだ。
「じゃあ、レース当日までに五千字書いたら一万円あげる」
 そんな条件を出すと、雅也は眉毛を八の字、口をへの字に曲げて、
「いけずやなぁ」
 ため息交じりに肩を落としていた。

「まるで私が一万円渡さなかったから、書けないとでも言いたそうね」
 そう言って詰め寄ると、
「あー! 堪忍、堪忍。怒らんといて!」
 両手をすり合わせて謝った。

 雅也はいつも、冗談みたいなコテコテの関西弁を話している。本人は贔屓のジョッキー《コーヘー》と同じ神戸出身だ、なんて言っているが、神戸の人は、こんな胡散臭い関西弁を話すのだろうか。

 ひょっとしたら、本当は東京の人なのに、自分の本音を悟られまいと関西弁を使っているのではないか。雅也と話していると、そんな気がして、ふと寂しくなることがある。
 前にそれとなく家族の話などを振ってみたら、雅也は胡散臭い関西弁で冗談を言い、ひらりと話題を変えた。それ以来、雅也に過去の話は訊かないことにしている。

 一緒に暮らしていながら、私は彼の生まれも育ちもよく知らない。でも私は、雅也が才能のある書き手だということは知っている。それさえ知っていれば充分だと思っていた。

 そんな私も、かつて小説を書いていた。
 きっかけは、高校時代に遊びで書いた掌編小説。わりとよく書けたので、友達に見せたら、それがどういうわけか学校中の話題になった。原稿用紙で10枚ほどの作品が、あちこちでコピーされ、それを原作にして漫画を描く子まで現れた。作品が私の手から離れ、勝手に増殖していったのだ。
 この経験は、私を勘違いさせるのに充分な材料となってしまった。

 でも、上には上がいる。
 大学時代に、とある創作塾に入ったとき、レベルの違いを思い知らされた。書いても書いても、いつも何かが足りない気がする。書いているときは気分がよくても、ふと我に返ったとき、今、自分の目の前にある文字の羅列が、本当に面白いかどうかよくわからない。でも、他の誰かが書いた小説は、自分の書いたものより、良く見えた。
 早くみんなに追いつきたい。
 そうやって上ばかり見過ぎたせいで、私の首は今にも抜けそうになっていた。

 本屋に行けば、文学賞を受賞した新人作家の本が並び、自分より若い作家の話題作が、発行部数10万部突破とポップに書かれている。
 好きな本を手に取るよりも先に、そういう情報が目に飛び込んできて、胸がぎゅっと締めつけられる。こんなにたくさんの才能がひしめく中に、自分の入る隙などあるのだろうか。新刊本の鼻が乾くような紙の匂いを嗅ぐと、呼吸が浅くなり息苦しくなった。

 それでも、執筆用の資料を探すために、私は本屋へと出掛けて行った。呼吸を整え、自動ドアに足を踏み込む。そのとき、ドドドドドドと、心臓がおかしな音を立てた。開いたドアから店内の空気が漏れ、本の匂いが鼻をかすめる。息が吸えなくなり、手足が冷たくなっていくのがわかった。

 しゃがみ込みそうになるのをどうにか堪え、本屋の隣にあるマクドナルドに入る。本の匂いは駄目だったのに、揚げたてのポテトや、ビーフパティの焼ける匂いは平気だった。レジでビッグマックセットを注文し、店内で勢いよく食らいつく。ジャンクな味がぐいぐい喉を通る快感が、私の苦痛を麻痺させてくれた。

 私は、本屋に入ることができなくなった。
 何度も足を踏み入れようとしたが、その度に息が詰まり、胸が締めつけられる。気づけば隣のマックで、ビッグマックセットを貪り食っていた。
 そんなことを繰り返せば、当然、体は肥えていく。それを創作塾の先輩にからかわれたとき、もう無理だと思った。

 先輩が太った私を躊躇なくわらったのは、私の書いた作品が駄作だったからだ。どんなに外見が醜かろうが、良い作品さえ書いていれば、愚弄されることはない。私の作品が駄目だから、先輩は私をからかったのだ。
 そんな妄想めいた思い込みが、私を更に苦しめた。思考回路がねじれ、歪み、自分の背骨がよじれていく。

 このままだと破綻する。
 そう思い、私は創作をやめた。人と自分の作品を比べて、勝手に傷ついてしまうことに疲れたのだ。小説を書くことで、これ以上、自分の存在を否定されるのが怖かった。私も昔、小説を書いていたんだよ、などと言いながら、はにかんでいるくらいがちょうどいい。

 雅也と出会ったのは、そんなふうに折り合いをつけながら、日々をやり過ごしていた頃のことだった。
 高校時代に私の掌編小説を広めるきっかけを作った友人が、私が好きそうな小説を書く人がいると紹介してくれたのだ。その人が私に会いたがっていると聞き、興味本位で会ってみることにした。

 待ち合わせは、駅前ビルの二階にあるファミレス。洒落た店に入るより、ファミレスくらい日常的なほうが相手の本性がわかりやすい。
 少しだけ遅れます、と連絡が来たので、店内で『ちくま文庫の太宰治全集4』を読んで待っています、と伝えておいた。会うのは初めてだったが、カバーを外した本を手にしていれば、すぐにわかるだろう。そう思い、私は適当なページを開いて読み始めた。

 雅也がA4サイズの茶封筒を手に、息せき切って現われたとき、ちょうど『千代女』を読み終えたところだった。彼は挨拶もなしに、
「これを読んでくれまへんか?」
 手に持っていた封筒を差し出した。いきなりの申し出に私は仰け反る。
「お願いします。いつも一人で書いてると、面白いかどうか、わからんようになるんです」
 コテコテの関西弁に思わず、「ええ、わかります」と返しそうになったが、それをぐっと堪えた。創作をやめた私に、何も言う資格はない。感想を述べることすら、後ろめたいと思った。でも、彼は下げた頭を上げる気配はない。

 あまりに必死に頼み込むので、突き返すのが可哀想になった。一度くらいなら読んでもいいかなと、目を通して度肝を抜かれた。私のために書かれたものではないかと錯覚するほど、作風が私の好みだったのだ。
   こんな才能がこの世にあるなら、私の文章なんて不要だ。
 改めてそう思わせてくれた雅也の才能に感謝し、気づけば私はその場で交際を申し込んでいた。私は未だに、雅也本人に惚れたのか、その才能に惚れたのか。どちらなのかをわかっていない。

 デートは決まって本屋か図書館。
 雅也となら、真新しい本の匂いも苦にならなかった。会話なく、互いに本を選び、黙読している時間こそ、ふたりが最もそば近くにいられるように感じた。執筆から逃げた私にとって、その時間は何よりも尊い時間だった。

「もっと書く時間があったらなぁ」
 本屋を出た帰り道、雅也がぼそりとつぶやく。
「じゃあ、仕事辞めちゃえば」
「えっ?」
「私が働いて、雅也が書く。それでいいじゃない」
 当然、雅也はひるんだ。私は怖気づく彼を励まし、創作だけに打ち込んでみることを勧めた。やってみて駄目なら、私があなたの骨を拾う、なんて気障なことまで言った。大袈裟だったかもしれない。でもそれくらい、私は本気なのだと伝えたかった。

「贅沢しなければ、ふたりで暮らすお金くらいなんとかなるわよ」
 創作をする人にとっては、書く時間こそが何よりの贅沢のはずだ。私は雅也に、その贅沢な時間を思う存分味わってもらいたかった。
 でも、徐々に彼はその贅沢を持て余すようになってしまった。


 どんな人にだって好不調の波はある。
 彼だって、書けない書けないと、ただ手をこまねいているわけではない。

「気分転換に、このエッセイコンテストに応募してみようと思うんや」
 雅也はそう言いながら、こちらにノートパソコンを傾けた。画面を覗いてみると、映し出されていたのは、毎年行われるエッセイコンテストのサイトだった。
「いいじゃない! 書いてみたら?」
 原稿用紙五枚以内。
 記載された募集要項を目で追ううちに、
「……私も書いてみたいなぁ」
 思わず、そんな言葉が洩れた。
「ええやないか。一緒に書こうや。最優秀賞の賞金は二十万。佳作でも一万貰えるで。ふたりで受賞して、一緒に焼肉食いにいこう」
 そう言うと、雅也は私の肩をポンと叩き、二カッと笑った。

 応募は一人一作のみだったが、書き出したら止まらなかった。まるで堰き止めていた水が溢れ出したように、次々とエピソードが浮かんでくる。最終的には、どの作品を応募するか、悩むほどの量になった。

「これがええよ」
 彼が選んだ作品は、私らしさを感じる良作だった。でもなんとなく、内容がコンテストの傾向に合わない気がした私は、締め切り直前になって、こっそり応募作品を別のものに差し変えた。
 その結果、私の作品は優秀賞に選ばれ、五万円の賞金を受け取ることになった。

「惜しかったなぁ! 俺が推薦した作品やったら、二十万間違いなしやったのにー」
 そう言う雅也の作品は落選。彼らしい感情豊かで表現力の光る作品だった。あれで落とされるのだから、改めて公募というものは恐ろしいものだと震えてしまう。

 受賞したことで作品を差し替えたことが発覚し、正直気まずかったが、
「これで焼肉は決まりやな!」
 雅也はいつものように私の肩をポンと叩いてニカッと笑った。普段と変わらない様子に、私は胸を撫で下ろした。

 それからというもの、私は書くことを我慢できなくなってしまった。しばらくは雅也に隠れてこっそり書いていたが、徐々に取り繕えなくなっていった。時間を切り詰め、寝食を惜しんで執筆する。書く時間がないなんて、思う時間ももったいなかった。
「なぁー、少し休まんと、身体にガタくるでー」
 急いで食器を洗う私に向かって雅也が言う。私の作ったカレーを平らげ、まったりと食後の缶チューハイを飲む彼は、たぶん今日も書かない。
 私の背骨がぎりぎりと音を立てる。

   だったら、あなたの書く時間を私にちょうだい!

 私は心の中でそう叫び、ほんの一瞬だけ雅也を睨んだ。
 きっと、そんな心の声が聞こえてしまったのだろう。次の日仕事から帰ると、雅也は消えていた。愛用のノートパソコンや本。靴や洋服も見当たらない。元々、持ち物は少なかったので、荷造りには苦労しなかっただろう。
 彼が残していったものは、小さなテーブルに置かれた、書き置き一枚のみ。そこには一言、
「ごめん」
 とだけ書かれてあった。

 裏を返してみると、それは書き込みで真っ黒になった原稿だった。おそらく初稿をプリントしたものだろう。少しでも作品を良くしようという、苦闘の痕跡がそこにはあった。
 原稿を裏返し、「ごめん」の文字を指でなぞる。
「……こういうときは『堪忍』じゃないんだ」
 ひたひたと湧きあがるかなしみを感じながらも、心のどこかで、私は彼がいなくなったことにほっとしていた。
   これでやっと、気兼ねなく書ける。
 その喜びが、彼を失ったかなしみを上回るのに、大した時間はかからなかった。

 そして再び、私は書く人になった。
 雅也と別れて一年が過ぎた頃、ようやく、私は目標としていた新人賞に応募できるまでになった。推敲を重ね、なんとか形になった作品は一次選考を通過し、私は一人暮らしの部屋で飛び上がって喜んだ。
 もう一度、自分の名前を確認しようと、応募先のサイトに目を走らせる。すると、そこに見覚えのある名前を見つけた。

 雅也だった。
 彼もこの賞に応募し、一次選考を通過していたのだ。私の作品は一次で散ってしまったが、雅也の作品は最終選考まで駒を進めた。そうなると、否が応にも結果が気になる。

 結果発表当日、私は早打つ鼓動を感じながらサイトを開いた。《大賞作品》の文字の横に、雅也の作品が載っていることを願って画面を見る。
   でも、そこに彼の名前はなかった。

 気づけば私は泣いていた。
 静かな涙はやがて嗚咽になり、自分でも不思議なくらい涙が止まらなかった。最初私は、彼が大賞を逃したことや、その作品が読めないことがかなしくて、涙が止まらないのだと思っていた。でも、自分の心を探るうちに、
   もっと時間をかけて丹念に取り組んでいれば、自分の作品も残れたんじゃないか。
 厚かましくも、そう思って泣いていることに気づいたのだった。


 クリスマスムード真っ只中の日曜日。
 私はマフラーに顔をうずめながら、老夫婦がやってる近所の中華屋さんに向かっていた。書き続けて、昨晩から何も食べていない。私はふらふらになりながら、少し建てつけの悪い、店の引き戸を開ける。
「いらっしゃいませー。お好きな席にどうぞ」
 壁際のテーブル席に着き、脱いだコートやマフラーを隣の席に置いた。店内の壁掛け時計を見ると、三時半をとうに回っている。私の他に、お客は誰もいなかった。

「中華そばと餃子をください」
 注文すると、店主が申し訳なさそうに、
「あの……あと五分くらい待ってもらえませんか。もうすぐレースが始まるんです」
 その視線の先にはテレビがあり、そこには美しいサラブレッドの姿が映し出されていた。
「いいですよ。終わってからで」
 私が言うと、店主は人の良さそうな顔を更に緩め、ぺこぺこと頭を下げた。
「すいませんねぇ。本当にこの人は馬に目がなくって。これでも食べて待ってて下さいね」
 店主の妻が、お通しと思われるザーサイの和え物をサービスしてくれた。
 五分で何文字書けるだろうと、咄嗟に思ってしまった自分に苦笑しながら、ザーサイをコリコリつまむ。

 テレビから、音楽隊が演奏するファンファーレが鳴り響く。そのリズムに合わせ、埋め尽くされた大観衆から手拍子が起こった。
 艶めいた尾をなびかせながら、サラブレッドたちが緑色のゲートに入っていく。全ての出走馬が収まると、溜めた力を解き放つように、馬が一斉にゲートから飛び出した。

 実況のけたたましい声が店内に響く。
 競馬に明るくない私の耳には外国語のようにしか聞こえなかったが、怒号にも似た歓声の大きさが、その日のメインレースであることを印象づけた。

「いけ―!」
 店主も盛り上がっている。
 当たり前だが馬は足が速い。レースはあっという間に決着がついて、中腰で鞍にまたがるジョッキーの姿が大写しになった。
 馬の名前は長くて聞き取れなかったが、一着になったジョッキーの名前には聞き覚えがあった。
 雅也が贔屓にしていた《コーヘー》だ。

 このレースを見て彼も今頃、歓声を上げているかもしれない。

 そう思ったとき、私の目から、予期せぬ涙がぽろりとこぼれた。
 私は慌ててそれを拭い、その涙が、雅也と別れてはじめて彼を想い、流した涙だということに気づいた。






12月22日は有馬記念です。



 この記事はもつにこみさんのアドベントカレンダー企画への参加記事です。

 明日のアドベントカレンダーはバクゼンさんがお送りします。


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花丸恵
お読み頂き、本当に有難うございました!