台湾と名がつくもの「八宝粥」
台湾と名がつくものが陳列棚に置かれ視界に飛び込んでくると、ふと足が止まり、無意識にするする手が伸び、その場に立ちすくみ時間を忘れる。
近くの業務スーパーにて、「八宝粥」を見つけた時もそうだ。
八宝粥は台湾風あまがしと言えばどんな味か想像できると思うが、沖縄あまがしほど甘くなく、甘いものを求めて買ってしまったら物足りなさを感じてしまうこと間違いない。でもこの控えめな甘さこそが八宝粥、またそれがいい。
コップサイズの缶を手に取り、変わらないデザインに台湾人の頑固さ、変える必要のない味、それを受け入れる人々の寛容さが直に伝わり、一路赤道越えを目指し最初に台湾を訪れた1986年、そして再度アジア放浪の旅に出た矢先、住み着いてしまった台中と台北での1992年からの四年間にふと戻される。
コンビニやスーパーには必ず置いてある八宝粥は、台湾に住んでいれば缶詰でなくても食べる機会は幾多とあり、たとえ食べたくてもわざわざ缶詰を買った記憶など殆どない。缶詰を買わなくとも今日は何となく八宝粥が食べたいと誰かに伝えれば、評判のおいしいお店を教えてくれるばかりか、ついでにご馳走してくれた。
台湾に四年も住んでいて一度も買ったことのない八宝粥の缶詰を、沖縄で見つけたからと言って初めて買うことになるのか、それとも手に取ってただ見つめ感傷に浸っているだけなのか、棚の前で立ち止まり時間だけがやみくもに経過していく。
欲しいクセに何かと難癖つけ、買わない理由を探そうとする私のような常態化した貧乏ケチ体質でも、健康志向の八種類の穀物使用、さらに価格設定一カン118円の企業努力が決定打となり、もはや財布のヒモは緩み口元はだらしなく垂れ、ついついカゴに三缶も入れていた。「しまった買い過ぎた!一缶だけにすれば良かった」と精算後レシートを確認しつつ、八宝粥をエコバッグに詰め込む段階にきてようやく我にかえる。
自宅に戻り改めて缶を手に取りしみじみと眺め、はたしてどんな味だったか、ラベルの写真からおぼろげに思い出せるが、なぜか八宝粥自体のその味さえ記憶の中から忘れ去られていた。おもむろにフタを開け、親切に折りたたみのスプーンまで付けているあたりに台湾人の気遣いを感じてしまい、ひとり感傷的になってしまう。
過ぎ去った時間を懐かしむつもりで買ったわけでもないのに、何も考えず食べればいいもの、一カンたった118円のあまがしなのに、次から次へとどことなく湧き出す記憶に、中々口に運べない。
台湾を離れはや数十年、常に何かに追われ続け昔を顧みる時とてなく、確かにあの頃、カネはなくとも時間だけは無限大にあった・・・
たぶん、懐かしい品々を買う、昔を顧みる、そして過去に拠り所を見つけるべきではない。今の自分が辛くなるだけで、現実は何も変わらない。そして、辛い現実を乗り越え自分を取り戻すためにも、どんな味だったのかも早く忘れるべきなのかもしれない。