私たちの再生
先々週末から軽く体調を崩していた。最近はどうも咳が長引いてしまう。
そういえば家族でコロナにかかったのは、昨年の今頃だったな、と思い出す。
夫は立ち上がれないほどの震えに焦って救急車を自分で呼び、私と息子は数日吐き気に苦しんで、私は治ったと思ったら咳が続き、その後肋骨を折った。でもそのおかげで息子は3歳半にして抱っこ登園を無事卒業できたんだよなぁ...としみじみ振り返る。
息子が保育園に通い始めてから、昨年の終わりまでの約1年半ほど、我が家は頻繁に体調を崩していた。
地元の幼なじみからたまに来る近況確認LINEに「ちょっと今、私(もしくは夫、息子)が熱出してて」と、毎回のように答えるものだから、ついには「また?○っぴんしゃんち、いつも体調崩してない?お祓い行った方よくない?」と言われたのが、なんか悔しかった。
子が2歳半で保育園に通い出すまでは、母子ともに風邪を引かなかった。
子が高熱を出したのも予防接種の副反応だけだったし、あとは生後3ヶ月くらいの時、サーキュレーターの向きが悪かったのか、ちょっと鼻水とくしゃみが出て焦ったくらい。2歳までにほぼ全員かかるという突発性発疹にもかからなかった。
一見、喜ばしいことだったかもしれないが、ちゃんとツケというものは回ってくる。
我々は、過度な対策によって相当免疫がなくなっていたんだと思う。
息子が生まれてすぐ、日本で最初のコロナ感染者が発表された。
「これは大変なことになるかもしれない・・・」
まだテレビでそこまでニュースになる前から、夫はネットであらゆる情報を調べまくっていた。
妊婦時代は私がル・クルーゼの鍋を持つことすら「怖いからやめて」と言っていた、心配性で過保護な夫。
里帰り出産をしない代わりに、二週間ほど私たちの家まで手伝いに来た私の母のやることなすことも気になって仕方なく、ガルガルしていた夫。
当時の彼は、コロナの影響をもろに受ける事業をしていて、さらに気胸に何度もかかったこともあり、健康面にも不安があった。
そんな夫のコロナ対策は、凄まじかった。
まず、息子が0歳児の頃は、基本的に私と息子二人でスーパーやコンビニに行くのもNGだった。支援センターに行ったり(そもそもほとんど開いてなかったけど)友人と会ったりなどは、もってのほか。
唯一、11ヶ月の頃、区の母親学級で仲良くなったママ友の家に行くのだけは渋々GOサインを出されたが、その時も「できれば子を抱っこ紐から出さないでほしい」と懇願、約束させられた。その家の子がすでに保育園に通い始めている(集団生活を始めている)という情報が夫を強張らせたのだ。
しかし、それはさすがに無理だった。なぜうちの子だけこんなに不自由な思いをさせなければならないんだ。
友人宅に着いて約20分後、「ごめん!やっぱ無理ーーー!!!」と、私は息子を抱っこ紐から出した。
ずっと包まれていたほっかほかの息子は、我が家と病院以外の屋内で、この日はじめて解き放たれた。
はじめは戸惑い、私にしがみついていた息子が、大喜びでボールを触っている。生まれてからLINEで交わす写真でしか見たことがなかった同い年の子と、おもちゃを取り合う息子の姿を見た時は胸が熱くなった。ずっと、ずっと、息子のこんな姿が見たかったから。
罪悪感を感じずにこの光景を見られたら、どんなに良かっただろう。
息子と二人の時は、子を抱っこ紐に入れて、近所をひたすら散歩していた。
当時住んでいたのは23区内ではあったが、自然も残る地域だったのが救いだった。
人と触れ合っていなさすぎた当時の私は、「蚊に刺されちゃうよ」と、近所のおばあさんに優しく話し掛けられるだけでうるっとしていた。
夫と三人で外に出られる時は、手すり、公園の遊具、息子が何かを触るたびに夫が血眼になって除菌シートで拭く。
夫が外から帰ってくると、子がどんなに泣いていても、私が抱っこを代わって欲しがっても、まずは30分以上かけての除菌対策。(人が多い場所に出掛けた時はすぐにシャワーを浴びるので1時間以上か)
玄関で服を脱ぎ、郵便物、コンビニの袋、買ったもの、すべては除菌シートで拭いてから中に入れなければならなかった。
当時はネットスーパーを利用していたのだが、ある時、いつも通り、一個一個の包装された商品を拭いては冷蔵庫に入れていると、そこで買ったほうれん草の袋の上部分が開いていた。
それを見た夫が「ごめん、これは捨てよう」と言う。
は・・・?さすがにキリがないだろと反対する私に、夫は「うん・・・ごめん。でも本当に、何があるか分からないから」と続けたのだ。
首を振り続ける夫を見て、私はぴかぴかのほうれん草を泣きながら捨てた。コロナ禍対策による、はじめての涙だった。
ナニガアルカ、ワカラナイ?それ言ってたら人間何にもできないだろ・・・
いつまでこれ続けるの?子の人生はどうなるの?!!
ていうか何であなたの許可を得てやらなきゃならないの???!!
自分の心を抑え続けている時の限界を超える瞬間やきっかけって、案外些細に思えることが多い。私にとってのそれは、ほうれん草だった。(兼業農家で、一生懸命野菜を育てる家族を見て育った私にとって、買ったばかりのほうれん草を捨てることは、全然些細なことではなかったけれど)
「そんなにしなきゃダメ?」「私のことも信じてほしい」と私は何度か言った。振り返るとやっぱり常軌を逸している。大事な子の成長のために、もっと夫に立ち向かうことができればまだ良かったが、あの頃は何が正しいか、何をすべきなのか、世の中全体が今よりもずっと混沌としていて、夫を完全なる悪者にできないのがまた地獄だったし、まずそれについてじっくり話し合う時間を、心身ともに弱りすぎている私たちは、物理的に作れなかった。
「いい旦那さんじゃん、うちなんて、何度言っても除菌してくれないよ」という人もいれば、「旦那さん・・・やばいね」「いやそれじゃ◯っぴんしゃんが先に死ぬでしょ」と言ってくれる人もいた。
友人からは後者の言葉が嬉しかったけど、実家からは夫がヤバイやつと思われたくなかった。彼らがしてきたことが正しくて、娘の選んだことが間違っていると思われたくなかっただけかもしれないけど...
コロナ禍で育児をする中で、「なんでこんなことになっちゃったんだろう」とよく思った。
価値観が合っていたはずの夫と、こんなにも分かり合えないなんて。
「なんでこんなに自分がつらい時に、相手はわかってくれないんだ」
お互いが、どこかでそう思っていた。
相手のため息が、全部自分を責めるための音に聞こえていた。
私も夫も、元々は結婚願望が強いタイプではなかった。というより、そういった幸せのかたちを素直には理解できない人間だった。
互いが相手と出会って、他人と暮らす居心地の良さや幸せを初めて知ったのだった。それは互いの実家での生活の比ではなかった。
「結婚がしたい」というより「この人と、この人の大切に思うものをずっと大切にしたい」という考えをかたちにする一番自然な表現の仕方が、その時はたまたま結婚だったのだと思う。
二人で眠りにつく時に「おやすみ」という言葉はほとんど交わさなかった。毎晩、どちらかが眠りにつく直前まで、話していたから。真剣な話も、くだらない話も、いくら話しても足りないくらい、とりとめもなく、彼と話すのは楽しかった。どちらが先に死ぬのも寂しいという夫のために、最期は同じタイミングで死んで生まれ変わろう、と、一緒に来世的な渦に飛び込む練習をベッドにダイブしながらやったこともあった。
結婚してからも二人の関係は変わることなく、何年一緒に暮らしていても、家に帰って、ご飯を作って食べて、彼と今日あったことを話し合うのが楽しみだった。
コロナ禍の育児はそんな生活をガラリと変えてしまった。
うらめしい気持ちは、どうしても態度に出てしまう。早く関係を修復させようと焦ると、かえってそれが相手を追い込むこともあった。
「これが本当の私だったんだよ」と投げやりに言う私に「コロナがなければこんなことにはならなかったよ」と彼は言った。
コロナは互いの価値観のズレに気付くきっかけに過ぎず、遅かれ早かれ、我々はこんな局面にはなっていただろう、というのが私の考え。人生の中でうまくいかないことがあった時、私が得意としてきた思想だ。
どちらが正解かは分からないけど、その時の夫の考えがなかったら、今の私たちはないだろうと思う。
1歳半健診の頃が、ピークだったかもしれない。健診の最後にできるという保健師さんへの相談の時間で、質問に答えながら、息子の癇癪について、偏食について、ワンオペで大怪我をさせてしまったこと、そこからさらに不安定になってしまったこと、頼れる人がいないこと、話しながら、何度も声が震えた。話しながら、何より、自分が実はこんなにいろんなことに不安を感じていたことに驚いた。もっといろいろうまくやれてる、自分は大丈夫だと思っていたのだ。
家にも来てくださった保健師さんの勧めで、ようやく夫も納得し、翌年から保育園に通い始めることができた。
私から離れたことのなかった息子は、しばらく、それはもう園でも語り継がれるほどの泣きっぷり叫びっぷり行き渋りっぷりだったが、離れたことでようやく、母という存在の大きさに気付いたらしかった。(それまでは、ただの奴隷、もしくは欲する時に何でも願望を叶えてくれる都合のいい女だと思われていた気がする・・・)新たな世界を知ることで、母子の絆は、さらに高まった。
息子の名前を呼び、息子のことを可愛がってくれたり、心配してくれたり、成長の様子を見てくれる存在が一気に増えたのは、子の人生にとっても、信じられないくらいにありがたく、嬉しいことだった。
平日在宅で働く私たちにとって、夫婦の会話の時間が増えたことも、かなり大切な変化だった。
二人の時間が増えて、いろんなことを思い出す。そうか、私たちは最初からすべての価値観が合っていたわけではなくて、意見が違った時は、その都度寄り添ったり、話し合ったり、譲り合ったりしていたんだ。
「この時間がずっとほしかったんだな・・・」と、夫は何度も口にした。
息子は4歳半になり、私たちは今年で結婚10周年になる。
赤ん坊の頃から喜怒哀楽の激しかった息子は、相変わらず頑ななところはあるが、その表現の仕方を覚え、自分の気持ちをしっかり伝えられる子に育っているように見えて、ほっとする。
4歳の息子に対して、私は一日に一回は必ず「かわいいなぁ」と言ってしまう。
こんなにかわいい子をかわいいと思えない時期もあったなんて・・・と思い、この前も書いてしまったが、それも違ったな、と今あらためて振り返る。
子どものことは、ずっとかわいい。我が子は私の中で、他の「かわいい」と同列に「かわいい」と表現することが許されないほど特別な存在だった。ただ、あの頃は、とにかく、目の前のかわいさをゆったり眺める余裕がなかったのだ。かわいい写真や動画はスマホにたくさん残っている。確かにものすごくかわいい。でも他の子どもや子犬、子猫のように、手放しでかわいいと思えない。愛しい気持ちに混在する、漠然とした不安、恐怖、不思議・・・。
「世界一かわいい」と言えるお母さんたちが、うらやましかった。
他人に頼るのが苦手な私が、はじめて頼らざるを得ない(頼った方が絶対に子どものためになると思えた)状態になったのが子育てで、にも関わらずコロナ禍はまず、誰かに頼ることが難しく、油断したら消えてしまう命とともに、私はずっと緊張しながら過ごしていたのだった。
戦友になるはずの夫とは、うまく手を取り合うことができず、いろんなことを何度も諦めかけた。いちばん大切なことをうまく話し合えず、私は一体この人のどこが好きだったんだろう、と途方に暮れたこともある。
でも、ジタバタしたり、冷静になったり、諦めかけたりしているうちに、状況は少しずつ変わり、私はやっとまた、じわじわと、大切に想い、想われる幸せを思い出せている。
二人で当時を振り返ると、一緒に暗い気持ちになるが、互いに謝るというよりは「ここまで来れてよかった」「つらかったね」「ありがとう」と言い合えるように、ようやくなった。(夫はマスクで顔が荒れ、ワクチンでひどい目にあってから、コロナ対策隊長の座をそっと降りた)
夫の仕事も少し落ち着き、いつからか、寝る前は親子三人で軽くごっこ遊びなどをする時間になった。
この前はスマホ撮影にハマった息子が、カメラを私たち夫婦に向けて「なんかやって!」という無茶振りをしてきた。
う~ん、どうする?と言いながら、とりあえず腕を組み、廊下をスキップしながら登場する私たち。
ふざけながらアドリブで息子の好きなウルトラマンの歌を歌うが、私がここで、大声で歌詞を思い切り間違える。
けらけら、ころころ笑いながら、「何よそれ~!」「もうちょっと動いて!かわいいピースで!」と、愛らしい監督の声。
「せ~の、ピース!!!」Wピースでくしゃくしゃの笑顔が揃う。
スマホを覗くと、こんなにも幸せな世界が現実にあるか・・・?というくらいの動画が撮れていた。
暗い中、眠る時用のオレンジ色の小さな照明だけで、全体的にぼけているし、夫の顔も思い切り見切れてるけど、それがまた夢の中みたいで、ぽわんとしてて、あったかい。
こんな日が来るなんて、あの頃は、全然思えなかった。
ここまでの人生も想像がつかないことの連続だったんだから、この先もどうなるかなんて分からない。でも今はこの映像が残せて、良かったな、と心から思う。
“死なせない育児”という言葉を数年前からよく聞く。(提唱者の本も持ってる)
これは通常、無理をせず、肩の力を抜いて、やることは最低限でいい。そのくらいおおらかに育てていいんですよ~といった意味で使われる。でもあの頃の夫にとっては、あの異常な育児ですら、大まじめに“死なせない育児”だったのだと思う。夫も病んでいた。
でも正直、母である私も、いろいろ一歩手前だった。
「これは異常事態だ」と認めてからが、やっと、私たちのやり直しのはじまりだった。
私にとっての“死なせない育児”は、この先もずっと“子の心も、子を見守る人の心も死なせない育児”だな。と、実感している。
咳もようやく、落ち着いてきた。
長引く咳にも、慣れたもんだ。
子は風邪もめっきり引かなくなっていたので、このたびうつされた風邪は完全に油断していた。
今の私には、私に向き合う時間が許されているから、ゆっくり癒していこう。
昨年、去年と、悲しい別れが多すぎた。
自分より大変な状況で生きている人なんてたくさんいる。
それはみんな分かっているけど、どんなに些細に思われることでも、その暗さの正体すら分からない時も、人はあふれる感情に抗えない時があるのも知っている。
今は自分の人生の、どのくらいの地点なんだろう。
どこに立っているにしろ、もう自分の心を自分で殺すのはやめにしたいな、と思う。
こんなことを書けるようになったことが、いちばんの再生だ。