学ぶことが楽しいって言ってはいけないの?
学ぶことって楽しい。心の底からそう思えるようになったのは大学生になってからだ。
小学生、中学生、高校生……その時の私は、学びの楽しさを口に出すのをためらっていた。もし話すとしても、相手を選んでいたように思う。
「すごいね」って、壁を感じる言葉だ
高校3年生のある日、選択授業の「情報」の話を、友人たちに熱心に語った。プログラミングの授業で感じた夢中さや、印象に残っている先生の話を共有したくて、楽しげに話し始めた。
「すごいね」
「やっぱりさすがだね~」
その瞬間、見えない線を引かれたように感じた。彼女たちはそんなつもりではなかったかもしれないが、私は自分が“違う存在”だと区切られたような感覚に包まれた。「話すの、やめた方がいいのかな」と思い、その瞬間から学びについて語ることが億劫になっていった。
学ぶ=楽しいと思ってはいけないの?
学びに好奇心を抱く人は、「すごい」人で、他の人とは違う“特別な存在”なのか? そんな疑問が頭をよぎる。
私は他の友達が持っているような趣味がなかった。ライブに行くほど推しのアイドルもいなかったし、フェスに通うバンド好きでもなかった。夜中に新発売のスニーカーを手に入れるための争奪戦にも参加したことがない。家では親の許可がなければ何もできず、私自身もそれを当たり前だと思っていた。
その代わりに、私は学校の授業に夢中だった。
情報の授業でプログラミングの世界に没頭し、0から企画を立ててプレゼンする時間が好きだった。英語の授業では、音読コンテストに出場したり、クラスで意見を発表することに力を入れていた。そんな私は、先生たちからは「真面目な生徒」として扱われ、友達からは「真面目ちゃん」と呼ばれていた。成績は良かったし、親や先生は喜んでくれた。でも、同級生との間にできる見えない壁がどうしても嫌だった。
その頃、何度か友達の悪ノリに合わせてみたこともあったけれど、後で涙が出るほど後悔した。
そんなこんなで、「真面目ちゃん」のわたしは、「真面目ちゃん」を抜け出せないまま大学生になる。
他己紹介で出会う
大学の授業の中で「他己紹介」を行う授業があった。それは、隣の人にインタビューをして、その人のことを自分の言葉で紹介するというものだった。隣に座っていたショートカットの優しそうな女の子と、ぎこちなくもお互いに話を始めた。
最初に書いたインタビューシートには、1. 好きなこと 2. 得意なこと 3. 得意になりたいこと、という項目があった。
正直なかなか書き出せず、手が止まってしまう。
教室の大半もそうだったようで、
「授業だから、思い切って自信を持って書いてみましょう」
と声をかけてくれた。
そうか、まあ、授業の中だけだからいいかと思い、ちょっと憧れていることを書いたりしてみる。
「得意になりたいこと」の欄には、YouTubeで動画制作をしたいとか、Illustratorを使ってデザインをしたいと書いた。憧れはあるが、まだ全然できないことだった。
インタビューが始まる。
彼女は私の話を親しみやすく聞いてくれて、緊張しつつも少しずつ話すことができた。次は彼女の番だ。「私は音楽が好きで、バンドの曲をよく聴くんだ」と言いながら、実はそれがバンドTシャツだと教えてくれた。
「得意なのは…数学!結構昔から好きなんだよね。」と彼女が続けた。
驚いて彼女をはっと見ると、彼女はちょっと嬉しそうに、嫌味のない可愛いどや顔をした。
彼女は人にどう思われるか気にならないのだろうか。
それでも彼女は自然体で、誰にどう思われようとも、自分の「得意」を隠そうとしない。中学のときに出会った素晴らしい数学の先生のおかげで好きになった、と話す彼女の姿は、とてもキラキラしていた。
その姿に、私は強く憧れた。
自分の好きや得意を堂々と語る彼女。彼女のように、学ぶことが楽しいと胸を張って言えるようになりたい、そう思った瞬間だった。
その後、私は人の目を気にせず、自分の「好き」に没頭するようになった。大学での「ワークショップデザイン」の授業は、私が本当に夢中になれた授業で、今の研究につながっている。
学ぶことは「すごい」ことなのか?
考えることをやめたことがあった気がする。自分が無知であることに対する羞恥心と、相手が別次元の人だと思うことで自分を守ろうとする気持ちから、線を引いてしまうのかもしれない。
結局は、興味があるか、ないのか、得意か、得意じゃないか、なのだろうか。
でも今なら、「どうして興味を持ったの?」とか、「もっと教えて!」と純粋に聞ける気がする。
「すごいね」の壁を知っているからこそ
似た者同士と一緒にいると安心感があり、共通の話題で盛り上がることができる。大学に入ってからは、クラスという枠組みがなくなり、関わりたい人とだけ関わることができるようになった。インターネットでも、自分と似た仲間を簡単に見つけられる。
でも、あのとき感じた「すごいね」の壁があったからこそ、私は自分自身を知ることができて、「自分らしさ」を楽しめるようになったと思う。
別に、授業が好き、学ぶことが好き、勉強が好き、でもいい。
学校教育から抜けられていない?
関係ない。それよりも、
いかに自分が夢中になれるか。
その中で自分らしさをどう見つけていくのか。
自分をどう説明するのか。
これが大切なのではないだろうか。
わたしは、大学生になってから、自分らしさを見つけることに心底悩んだ。
それは自分で自分のことを否定していたから。
「自分らしさ」というのは身につけるものではなくて、
自分のそばにあるけれど、自分が隠しているものを見つける作業でもある気がする。
わたしは、自分は何者なのか、自分を説明するために、
大学生のときに夢中になった「ワークショップ」を研究し学んでいる。
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