人生最大のギフトを受け取ったことについて〜がんになったわたし、プロローグ〜
お久しぶりです。
またもや更新滞っていましたが、実はわたし、前回の更新から、ものすごい人生の転換期に突入し、現在真っ只中というところです。
最近会ってなくてこのブログを読んでいる私の知人・友人、また仕事でお世話になった方々を驚かせてしまうと思うのですが、4月に初期の卵巣がんが見つかって、6/11に手術し、現在は抗がん剤の治療というタームに入りました。
思えば4月から今日まで本当に怒涛の日々で、全ての方にご連絡することが難しい状況でした。
関係者の皆さん、本当にすみません…!
まずは仕事において取引先の皆様、関係者の皆様、サポートしてくださっている協力パートナーの皆様、そして関わらせていただいていたコミュニティ、友人、知人の皆様、お一人づつご連絡するわけにもいかず、この場を借りてすみませんm(__)m
さて、今。
久しぶりにnoteを開き、これまでのこと、これからのこと、そして治療中に自分がやろうと思っていることなどをnoteに書いていこうと思いました。
こう思うまでに手術の終わったタイミングから今日まで一ヶ月と少しでした。
まさか自分の闘病記録を発信することなんてまったく頭になかったです。
でも。
この1ヶ月と少しの間に、様々ながん経験者の方のブログやSNSやYouTubeを見て、情報を得ることができ、私自身が大変に励まされたこと。
中でも、フリーランスクリエイターやアーティストの方で自身のがんの経験を発信されて今ますます輝いている方たちの投稿に大変励まされたこと。
そういうものに触れていくうちに、私も発信をしようと思ったというのが本音です。
まずは、ことのはじめから、少しづつ綴ってみようと思います。
* * *
思えば、ここ2年ほどは怒涛の忙しさだった。
2021年頃からどっと案件が集中し、制作&制作の日々の中、自分に追い打ちをかけるように仕事において次の段階へと移行しようと決意し、忙しい合間をぬって資格取得のため講座へ参加したり、コミュニティに参加したり。
息つく暇もなく次のデザイン仕事、複数案件の掛け持ちで、業界が全く違うデザインを渡り歩き、お客様の想いやコンテンツを形にする毎日。
週末は溜まった仕事か、もしくは資格取得の講座に通い、夜もZoomでの勉強会参加など、常に頭はフル稼働で、気がつけば溜め息をつき、神経の休まるところがない。
それでも私自身はやりたくて、好きでやっていた。
疲れはあっても、転げ落ちるほどのストレスなんてなかった。
講座での刺激的な学びや知識との出会いは喜びだった。
知的好奇心の中で新しく出会う様々な業界の人との交流や遊びも。
仕事があることもありがたかった。
今日は良くても明日は知れぬフリーランス。
いただけるお仕事は全て引き受けていた。
一通り予定していた講座が終了し、いよいよ新しいコンテンツを立ち上げようと考えていた2024年の1月頃、ふと毎月ある生理が遅れているなと感じた。
たぶん、昨年の秋くらいから。
今まで重い生理痛もなく、生理で不調を感じたことはほとんどなかったし、年齢も40代後半になり、こうゆうこともあるかなと思ったのだけど、どこかで、何となく、身体からの声というか、ちょっとした違和感を感じた。
15年のフリーランス人生、にわか健康オタクで病院嫌い、不調や風邪もいっさい薬を飲まないで治してきたわたしが、約8年ぶり?くらいに婦人科クリニックへいこうと思った。
その、本当にかすかな、でも、確かに訴えるわたしの身体の奥のドアのそのまた奥のドアから聴こえてくるような、声をキャッチしたことで。
クリニックで慣れないカルテを書いて、看護師による丁寧な事前ヒアリングを受けた後、わたしの問診をしてくれた女医さんが、少し曇ったような表情で、「子宮頸がん体がんの検診もしましょう」と言いながらすぐに診察をしてくれた。
エコーの診察の後、服を着て先生の話を聞くと、「左の卵巣が腫れています。血液検査の結果を聞きに2週間後にまた来てください。」と
言った。
わたしは、何となく不安を感じながら「わかりました」と言って、会計を済ませて帰った。
帰宅後、主人に、「婦人科のクリニックで検査にひっかかっちゃった」というと、主人は無表情で「えっ…」と言い、目をじっと見ると瞳が深海に染まったような顔をしていた。
その色を確認した時、私の胸の奥にも一瞬不安がよぎったのだけど、感じないように目をそらした。
結果を聞きに行くまでの2週間。
心中穏やかではなかったけど、「自分は大丈夫」とどこかで思っていた。
2週間後、結果を聞きに行くと、女医の先生は、「頸がん体がんは問題ありませんでした。ただ…、腫瘍マーカーの数値が少し高いのね。」と。
「今すぐどうこうという緊急性のあるものではなさそうなんだけど、大きい病院に行って見てもらってください。」と言った。
2月の中旬、この時も、わたしはどこか自分のことのようではないというのが本音だった。
ただ、「大きい病院か…」と、ちょっと面倒なことになったなというくらいで。
この後、大学病院での初診予約ができたのが4/1、何度か診察と検査を経て、最終的な診断が出たのが、4/23。
主人と2人結果を聞きに行き、何時間も待った後、やっと呼ばれた診察室で、初めて会った医師から「MRI、CT、血液検査の結果から、卵巣がんの疑いがあります。
ただ、卵巣は奥の方にある臓器なので、手術してとってみないと、良性か悪性かわかりません。」
と告げられた。
思わず主人と顔を合わせて息を呑んだ。
ここから、わたしの人生や意識が大きく転換することを知りもせずに。
息を飲んだ瞬間に頭の奥で聞こえた深い鐘のような音は、今思えば、新しいステージへの移行の合図だったのかも。
* * *
それから色んな調整を経て、6/9に入院し、11日に手術ということになった。
この辺りのことは後で記録として改めて書くつもりなんだけど、わたしは、入院して手術が終わって目覚める瞬間まで、自分の腫瘍は良性だと信じ込んでいた。
まるで疑いようもなく。
わたしは健康には人一倍思い入れがあったから。
食事、習慣、運動、考え方、マインド。
自分の人生の一番大切にしている価値観は「健康」だとどんな場面でも言ってきた。
どんなに忙しくても、睡眠と食事だけは大切にしてきた。
それがフリーランスとして生きる、わたしのプロ意識のひとつだと思ってたから。
そのわたしががんになるはずがない。
「わたしががんなら世の中の人はみんながんだと思う」と、冗談のように言ってきた。
全く疑っていなかった。
でも、手術が終わって麻酔から目が覚めた時、ストレッチャーに乗せられてHCUに移動してる私に主治医が言った。
「あさくらさん、腫瘍は悪性でリンパまでとる手術でした。」
わたしはそれを聞いて、静かに頷いた。
”がん”、だったんだ。
自分の信じてきたものが、一瞬にして崩れ落ちた。
あんなに誰よりも健康だと信じてたのに。
主人の顔が見えて、聞いた。
「今、何時?」
「18時になるところだよ。」
11時半に手術室に入ったから、7時間弱だった。
実は手術の前日の診察で、腫瘍マーカーの数値が基準値内まで落ちていた。
診察をしてくれた主治医は、「基準値だけど、エコーで腫瘍はあるので、明日は予定通り手術します」と私に言った。
私はその夜主人に電話し、「明日はきっと子宮、卵巣をとるだけの手術コースになるだろう」、と伝えた。
その場合、2時間で終わると事前に聞いていた。
実は手術の日までわたしは、東洋医療的治療やサプリ、漢方、国際中医薬膳師のアドバイザーさん、また身体をあたためたり、友人に紹介してもらった気功の治療なども取り入れていた。
さらに普段のトレーニングの負荷も増やして強化した。
様々な方面のプロフェッショナルを味方につけて、また徹底的に冷えないように、注意して過ごしていた。
手術室に入るまで、2時間コースだと思っていた。
「なかなか終わらなくてやきもきしたでしょう。」と主人に言うと、「まあね。」といつもの顔で笑った。
後で聞くと、2時間で終わると思っていたのに、なかなか連絡がこず、5時間を超えたあたりで思わずナースステーションに無事なのか確認に行ったらしい。
不安いっぱいで待合の家族が次々帰る中、一人残された主人を想像して泣けてきた。
「2時間で終わるから」と前夜に伝えていた自分を反省した。
この後、HCUを出て、病室で過ごす2週間ほどの間に、わたしは淡々と自分が悪性のがん患者になったことを一人静かに受け入れた。
それでも、大学病院の看護師さんや先生方はとても親切で優しく、術後の痛みを引きずる私には感謝しかなかった。
また30代(と思われる)の女性の主治医はとても信頼できる先生で、この人に任せてついていこうと思えた。
ここまでが手術までの道のり。
* * *
大変な話がつづくようだけど、これから後に続く意識のシフトが本当のはじまり。
ある入院中の眠れない夜、わたしの意識がこれまでとまったく違う方向にシフトする、気づきのビックバンのような瞬間を味わった。
それはまるでこれまでの憑き物が一気に落ちたような感覚と、わたしのこれからの啓示を味わうようだった。
そしてその瞬間、この出来事は自分の人生をあるがまま受け入れて次の舞台に移行するまでの花道と確信する。
まるで眠れない夜が続いたのだけど、その日以来、眠れるようになった。
自分ががんだったことをただ受け入れたその瞬間に。
* * *
この記録は、わたしの卵巣がんの治療日記というマガジンにしようと思います。
闘病日記ではなく、治療日記。
入院の間に読んだ本から、病は戦うものではないという気づきがあったからです。
そのあたりの話も含めてこれ以降の続きは、また次回です。